他者を鏡とするということ


〔2006.08.19記・08.22注記〕

「他人(ひと)の振り見てわが振り直せ」「他山の石」のようなことわざや故事、あるいは「人をもって亀鑑(かがみ)となす」といった表現の存在は人間が他者の姿や行動をわが身にあてはめて自己を反省する動物であることを示している。

マルクスはこのことを、ある商品A(リンネル)が他のある商品B(上着)に関連することによって自己の相対的価値を示すことを述べる部分の注で取りあげている。注の直前の段落と注とを以下に引用する。

資本論』大月書店「マルクスエンゲルス全集第23巻」所収、71ページ


こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(一八)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値はこのように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。


一八 見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分自身を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、ペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的肉体のままで、人間という種族の現象形態として認められるのである。

人間ペテロは人間パウロを鏡としてつまりパウロの身を自分の身に置き換えて、パウロの姿の中に人間種族つまり類としての自分の姿を見るのである。

これは観念的自己分裂の一つの形態(想像→移行)であるが、宮田和保はマルクスのこの記述が自己意識の形成と発生についての解明の手がかりを与えるとして詳細に分析している。

『意識と言語』桜井書店、49〜50ページ


 「価値形態」論で着目すべきことは、リンネルを織る私的労働の社会的性格が上着商品で表され、リンネルの価値が商品上着を媒介にして表現されている、という論理である。マルクスはこのおなじ論理が自己意識にも妥当するとして、つぎのように論及している。


「人間は、鏡〔Spiegel〕をもってこの世に生まれて来たのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる〔bespiegelt sich der Mensch zuerst in einen Menschen〕。人間ペーターは、彼と等しいものとしての人間パウロとの連関を通してはじめて人間としての自分自身に連関する〔Erstdurch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen beziehtsich der Mensch Peter auf sich selbst alsMensch〕。だが、それとともに、ペーターにとってパウロの全体が、そのパウロ的肉体のままで、人間という種族の現象形態として通用する」(『資本論』第一部 七一〜七二頁)

 この叙述は、自己意識の形成が「どのようにして」発生するのか、についての解明の手がかりを与えている。すなわち、「鏡」に自分自身を「映してみる」ことによって自分の姿を知るように、「鏡」としての「他の人間」から現実の自分を反省し、「自分自身に関連する」ことにより、自分自身の存在を意識するのだ、という。他者を媒介とした自己内反省がそれである。

 さらに、この自己内反省のための「鏡」としての「他の人間」が自己に内化すること――これは同時に自己が他人となることでもある――によって、「自己の二重化」が確定する。ここでのちの論述のために注意しておかなければならないことは、「観念的な自己」が自己のうちに内化した「他者」であるがゆえに、「観念的な自己」はこの「他者」にふたたび「転換」でき、「他者」の立場から「現実的な自己」を「客体化する」ことが可能となる、ということである。

観念的自己分裂はさまざまな<鏡>を媒介にした観念的な世界への移行とそこからの復帰という意識の自己運動であるが、宮田はその機序を「観念的な置き換え」と「観念的な転換」という概念を用いて詳細に分析している。転換主体の立場の移行である。置き換えには客体の置き換え主体の置き換えとがある。長くなるが引用する。なお強調は私がつけたものである。

『意識と言語』、94〜97ページ


 私たちが日常生活における人々の共感能力を理解するためには、まず〈観念的な置き換え〉と〈観念的な転換〉について正しく把握しなければならない。そこで、三浦つとむが「観念的な自己分裂」を説明するさいに、たびたび取りあげる「人のふり見てわがふりなおせ」という諺(ことわざ)の具体的な場面を取りあげてみよう。

 他人が酔っぱらってベンチで醜態を演じているとき、私がそれを眺めながら、「こんな醜態を演じたなら、恋人が婚約解消というだろうから、注意しよう」と思ったとする。これを具体的に分析してみよう。(1)私は、酔っぱらって醜態を演じている「この現実の他人を観念的に自己[想像上において現実的な自己]に置き換え(三浦つとむ『言語過程説の展開』 三〇頁)、そのことによって、(2)「こちら側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換える(同上)。このことは、私たちが日常的に鏡をみているとき、鏡のなかの自分は映像と知りながらも、想像のなかで「鏡のなかの自分」をあたかも「現実的な自己」に「観念的に置き換え」(=「観念的な対象化」)、それに照応して、こちらの側の「現実的な自己」が「観念的な自己」に「置き換わる」のとまったくおなじである。このようにして自分がみずからを客観的な位置に置く。

 この「観念的な自己」が、(3)想像のなかでの「現実的な自己」つまり醜態を演じている自分(酔っぱらった他人と観念的に置き換わった自己)を対象として取りあげ、「こんな醜態を演じたなら」と思う。さらに、(4)この「観念的な自己を恋人に観念的に転換させ」て、この恋人の立場からこんな醜態を演じている自分をみて、「こんな自分をみたら婚約解消をいう―で―ある」と考える。ただし、このでの「で―ある」は、「恋人」が「こんな自分をみたら婚約解消をいう」ということを「観念的な自己」が判断したことをあらわす二重の〈指定(判断)の助動詞〉である。(5)「それからふたたび現実のありのまま眺める立場にもどり、観念的な自己分裂から復帰」した「現実的な自己」の立場から、「婚約解消をいう―で―ある」ということを〈推量〉し、そこで「う」(推量の助動詞)を追加する。「で―ある―う」が「だろう」と形式を変える。最後に、(6)おなじ立場からまずい事態を招く「から」、「注意しよう」(注意する・う(意志の助動詞「う」)→注意しよう)となる。このようにして「自己分裂のときの認識は現実的な自己の認識に止揚される」。

 …… 中略 ……

 一方で「現実の他人を観念的に自己[想像上の現実的な自己]に置き換え」、他方で「こちらの側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換える」。このことは、想像力によって「現実の他人が観念的な自己[想像上の現実的な自己]に置き換え」られた想像的・観念的な世界にたいして、「観念的な自己」が向かい合うことを意味する。ただこの向かい合いは無意識的に行われる。このように「置き換え」は「観念的な自己分裂」と一体のもとで遂行される。つまり、さきの醜態を演じているのはあくまでも「他人」であるが、この「他人」を「現実的な自己」に置き換えたのは想像力によるフィックションであり、このフィックションの世界の形成に照応して「観念的な自己分裂」が生じた。これは〈時制の意識〉の成立の場合とおなじである。また、想像の世界に向かい合っている「観念的な自己」が「恋人」に「観念的に転換」するのは――「観念的な置き換え」と混同しないように――、「観念的な自己」が本源的には自己に内化した「他の人間」であることによる。すなわち、この「観念的な転換」は、出自を「他の人間」にもつ「観念的な自己」がふたたびこの「他の人間」に回帰したことを意味する。「人のふり」を「おのれのふり」へと投影(=観念的な置き換え)するのは「想像力」であった。「わがふりなおせ」の「わがふり」を「客観化」したのは、「他の人間」を媒介にして生成した「観念的な自己」であり、この「観念的な自己」がさらに「恋人」という「他の人間」に「観念的に転換」されたのだ。

 ちなみに、以上述べたことが独白の "Du"(=you)においても妥当する。そこでさきの鏡の例にもどろう。(1)想像のなかで「鏡のなかの自分」をあたかも「現実的な自己」に観念的に置き換え(=観念的に対象化)、それに照応して、(2)こちらの側の「現実的な自己」が「観念的な自己」に置き換わる(3)この「観念的な自己」は他者を自己の出自としていたのだから、この他者に「転換」される。(4)この転換された他者の立場からすれば、鏡のなかの「現実的な自己」は、”おまえ”(Du)という規定を受けとる。この鏡の場合とおなじく、他者に観念的に転換した「観念的な自己」の立場からすれば、現実的な自己は”おまえ”という規定を受けとる。これが独白の "Du"である。私(ich)が君(Du)に変換されるのはドイツ語だけに特有なものではない。日本語においても、自分自身を指して「われ/おのれの恥を知る」というが、同時に他人を指して「われ/おのれは何者ぞや」ともいう。このかぎりでは日本語とドイツ語とはおなじ構造をもっている。つまりこうである。自分自身を指して「われ/おのれ」というとき「観念的な自己」(想像上の話し手)が対象としての「現実の自分」を指し示す。しかし、この指し示す「観念的な自己」は本来的には「他者」に出自をもっていたのだから、この他者に「転換」する。したがって、自分自身を指し示した「われ/おのれ」は、この転換した他者からすれば、話し相手(あなた)を指示するものに転回する。

最後の部分は三浦が指摘している<一人称代名詞が二人称代名詞に変わる>理由をさらに詳細に分析していて興味ぶかい。これはやはり三浦が指摘している「おとうさん」「おかあさん」などの<本来は話者との関係を表わす名詞が自分や相手あるいは第三者を表わす代名詞のように用いられる>理由の分析ともつながっている(「おとうさん」「おかあさん」「おばあちゃん」「おじちゃん」「おねえちゃん」などの前に「指し示されている人の子供(あるいは孫、甥、姪、妹、弟…)の名前」+「の」を補ってみるとそのことがよくわかる。つまり、話者がその子供の立場に観念的に移行し、その子供の視点から見た対象を表現しているのである)。

〔2006.08.22注記〕

「他者を鏡とする観念的自己分裂」については「鏡と自己分裂(三浦つとむ)」(2005.01.25)に引用した三浦つとむの論考も参照して戴きたい。