概念は「言語」に先立つ(1)


〔2006.08.18記および転載・08.22語句修正〕

「言語」の介在しない概念(2006/07/26)に関して建築屋さんから下のようなコメント(挨拶部分を省略)を戴きました。それについて『濫觴(らんしょう』掲示板で回答をさし上げた(2006/08/03)のですが、このブログの稿の内容に関することなので転載しておきます。


コメント:2006/08/02 色々と

>言語規範が介在しない概念について考えてみたい。

う〜ん?言語以外の意識・観念に対して「概念」を用いると混乱するのではないですか?
ボクはそれを「心象」と呼び分けることにしてます。漠然としたイメージとか感覚感情とか。やうするに言語化されない、もしくは言語化できない意識ですね。辞書的には例えば


Wikipedia

概念(がいねん)・コンセプトとは、物事の総括的・概括的な意味のこと。ある事物に対して共通事項を包括し、抽象・普遍化してとらえた意味内容で、普通、思考活動の基盤となる基本的な形態として頭の中でとらえたもの。

その概念を言葉で表現されたものを「名辞」と呼び、言語の構成要素として、それを組み合わせ、述べ表し、判断・認識可能なものとして現実世界をとらえて表現する。人間はほぼこのような概念化した名辞によって、この世の中のあらゆることを理解したり、表現している。云々

としてますように、ある心象なり感覚感情なりを、他の何かとは分別されえるものとして、名付けたもの=言語表現したもの、ですね。逆に言えば、言語化(名付)されてなければ概念とは呼べないでしょう。

> ソシュールはそのような概念は存在しないと考えていたらしい。そうでなければ「思想は,それだけ取ってみると,星雲のようなものであって,そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない.予定観念などというものはなく,言語が現われないうちは,なに一つ分明なものはない.」(『一般言語学講義』)などという言葉が出てくるはずがないからである。

ソシュール読んだことないのでなんなんですが、引用部分だけを読む限り、言語化されることによって初めて思想(世界観的心象)は分明になる、と言ってるだけのように思えます。単に言語化以前の意識=「心象」と言語化された意識=「概念」を区別せよ、と言っているのでは?

「思想」と訳されている言葉の原語(原義)がなんだか知りませんのでなんなんですが(←ってなんなんだ?笑)「それだけ取ってみると,星雲のようなもの」なる「思想」は、「概念として言語化された意識の体系」ではなく、願望欲望情念妄想などもない交ぜの「観・心象」だし、言語は、その一部の名付られた(=表現された)部分もしくは側面としてあるだけでしょう。

ソシュールは、そのような心象は存在しないと考えていたのではない、と解釈できますが。

> これまでにも私は言語規範――厳密にいえばシーニュ――が介在しない概念が存在することを前提に論を進めてきた。というのは、私にとって言語規範が介在しない概念が存在するのはごく当たり前のことだからである。普通に生活している人間なら誰でもちょっと注意して自分の意識の中を覗いてみればシニフィアン(音声表象)と結びついていない概念が生じては消え生じては消えしていることに気がつく。

言語活動は人間の観念活動=心的活動の一部分もしくは一側面なので、当然ですね。世界を表現する者には絵描きもいれば音楽家もダンサーもいますし・・・って「シーニュ――が介在しない概念」と言うところが混乱の素ではないですか?「概念」とは当に「シーニュ」=言語学的概念として定義されている言語に他ならない訳ですから。もし言語規範がなければ概念はないでしょう。
で、お説の「概念」を「心象」とか「イメージ」とかと入替えてみると、ボクも了解、当然、となりますね。

> そして、自分の身の回りの状況を認識しているということはそれを構成している「もの」や「こと」およびそれらの関係を認識しているということであり、それらの「もの」や「こと」およびそれらの相互関係を、そしてそれらと自分との関係を、概念や概念相互の関係として意識の中でとらえているということを意味する。

絵を描く、絵に描く、という行為でしている事は、描こうとしている対象を、描いていない対象群から、分明する訳ですが、例えばへのへのもへじと描くのとモナリザ的に描くのとでは、対象の内容なり外郭なり性格なりなんなりの「分明」の仕方が違いますね。
他者に何を表現(伝達)するかという問題(現象)以前に、描き手の意識(分明化欲)に応じた描き手自身の心象の把握行為(対象化)があるでしょう。

この自己把握の過程では、必ずしも、他者(言語規範とか)を必要とはしませんね。他人とどんなに異なっていても問題ありませんから。

その把握の仕方を、他者のそれとおぼしきものと対照する時にはじめて、他者=規範が関係してくるはずです。で、勿論、他者と無接触に生れ育つ人間はおりませんので、言語規範に限らずあらゆる社会規範と無縁な人間は、存在しない、となりますし、規範と無縁な意識も存在しない、となる訳ですが。

しかし、その時、自己の意識(心象)と、他者の意識(心象)の同一性、もしくは類似性などは、保証されてませんね。ボクが「心象」と表現することをシカゴさんは「概念」と表現なさっておいでかもしれない。いやもっと別の事をおっしゃっているのかもしれない。

つまり、この自己の心象とそれを対象化する意識の領域(内観)には、「規範」は存在しないはずです。

それは人と人の間、自己と他者、他者と他者の関係の仕方として、まずは外観的にしか存在しません。だからこそ「規範」なのではありませんか?人(意識・認識)を縛り、社会的人間の形を付与するものとしての。

で勿論、人が社会的に育つ過程というのは、その外観を内観化(自己化)する過程に他ならず、で例えば、言語規範という外在物を、あたかも自己の内在物であるかのようにさえ感じてしまうに至るでしょう。

> たとえば食事をしているとき、箸や茶わんやご飯や味噌汁…といったものについて私たちはそれらが何であるか認識した上で、手に持ち口に運び咀嚼し嚥下しているはずである。しかしご飯を食べているときに「チャワン」「ハシ」「ゴハン」「クチ」「カム」「ノミコム」などという音声表象を頭の中に思い浮かべている人はまずいないであろう。

人が物(事)に「名付ける」ということの不思議さに沈み込んだ、学生時代のある夜、ボクは目にし手にするもの辺り構わずマジックインクでその名を書付けました。「電気スタンド」とか「机」とか「本」とかネ(笑)そうとうの後日、数十年たったある時、当時同居していた兄嫁がボクのこと「とうとうアタマがおかしくなったのかもしれないってなんか怖かったヨ〜」って。タハハハ〜〜〜説明してもしょもないから笑ってるしかなかったですよ〜〜。

>このことは生活のあらゆる場面についていえることである。自分の身の回りの状況についていちいち音声表象に結びつけていたら、そちらに気を取られてしまって何一つきちんとすることができないであろう。音声表象に結びつけて意識するのは、何かに特別に関心を惹きつけられたときとか、自分に言い聞かせて特に気をつけなければいけないときとか、もの思いにふけっていて感慨が思わず脳裏に音声表象として浮かんできたとか、あるいは思考活動をしているとき、そして他者との間に言葉を通じて交通をしているとき…、といった場合なのである。

そうですね。物事に対する自己意識を、明確に対象化する必要がない時は、特に意識しない(対象化活動をしない)のですが、しかし恐らく、他者との関係の中で何かを行う時には、必ずなんらかの対象化=規範との対照化、を行いながら、活動しているでしょう。そうでなければ概ねボクみたくキチガイと思われてしまうですヨネ〜ってのが今日の結論^^;

>私たちは人生のかなり多くの時間を「言語langue」なしに暮らしている。そしてそのときも私たちの意識の中にはさまざまな概念が生成・消滅し、記憶・再生されているのである。

とのお説に関してはおそらく、「心象」と「意識」の使い分け方=概念的定義の問題になろうかと。また、あらゆる社会規範と無縁にあり得ない人間の問題として言うと「言語」は対象的意識にとっての「規範そのもの」とも言えますので、ボクには「言語規範」は「頭痛がイタイ」です。ではまた。(2006/08/02 水 14:21:32 | 建築屋)

〔2006.08.18記・08.18転載〕

建築屋さん、こんばんは。

だいたいおっしゃりたいことは分かります。建築屋さんが「心象」(心像)と呼んでいるものが私のいう表象です。で、表象は概念を伴っているというのが私の考えです。

しかし、「概念」という言葉が何をさしているのかということで見解の相違があるので前半部分は話が噛み合っていません。ソシュールは「言語」の介在しない明確な切れ目のある概念の存在を否定しています。つまり「シニフィアン」によって「分節」されて初めて概念が誕生するというわけです。そういう意味では建築屋さんとソシュールは同じ見解であるといえると思いますが…。

ところで、概念についての Wikipedia の記述ですが私には「ある心象なり感覚感情なりを、他の何かとは分別されえるものとして、名付けたもの=言語表現したもの」とは読めませんでした。「物事の総括的・概括的な意味」「ある事物に対して共通事項を包括し、抽象・普遍化してとらえた意味内容」としての概念がまず存在して、その概念に「言葉」としての記号つまり「名辞」をつけるというのが前半部。後半部はこれを受けて「名辞」と結びついた「概念」ないし、「概念」と結びついた「名辞」を利用して表現したり、思考したりしている、という風に私は読み取りました。

この記述は、物事について概念把握がなされたのちにその概念に「名辞」がつけられるといっているわけで、「概念が言葉に先立つ」という私の考えと一致します。このことは、「名辞」がつけられる以前に概念相互のあいだには明確な切れ目があることを示しています。

ある個物はさまざまな属性をもった存在ですが、他の個物とは区別された存在です。そしてその個物をどのような観点からとらえるかによってさまざまに概念規定のできるものです。ある個物を単に果実ととらえるか、食べ物としてとらえるか、中に有用な種を宿したものととらえるか、丸いものとしてとらえるか、…紅いものとしてか、すっぱいものとしてか、あるいはジャムの原料としてか、店で買ってきたものとしてか、いい匂いのするものか、友人にあげるものとしてか、仏壇にそなえるものとしてか、…等々、どの側面を見てとらえるかによってその個物と結びついた概念が違ってきます。

頭の中に表象を思い浮かべるとき、その表象はそのものをある側面からとらえた概念をともなって現われています。たとえば私がタバコを思い浮かべるとき、その多くの場合「タバコ」という「シニフィアン」を伴っていません。それは吸いたいものであったり、つねにあるべき場所を占めている直方体の物体であったり、白くて何か印刷してある小さなものだったり、手を伸ばして取ろうとしたらあるべき場所になくて探さなければならなくなったものだったり、中身が残り少なくなっているので後で買いに行かなければならないものだったり…するわけです。私が概念という言葉で示しているのはこういうものを含めた広い意味の概念です。無数の属性をもったある個物をある側面からとらえたもの、それが概念です。体系的に類別、分類されたものとしての概念(建築屋さんのいう概念)は多くの場合言葉と結びついています。しかし、これとても例外はあります。私が散歩をする道のある場所に生えているある植物があります。私はこの植物の名前を知りません。しかし私はこの植物を「植物」という概念でくくって考えてはいないのです。あの場所のタンポポやこの場所のヒメジョオンやそこのススキ…と同じようなレベルでこの植物をとらえています。

このように概念はたいていの場合個物の概念つまり個別概念として私の頭の中に生じては消え、生じては消えしているのです。

このように人間はある個物をその状況によってある側面からとらえた概念として認識しているわけです。他の個物とは区別され、ある性格をもったものとして個物を把握したものが個別概念(注)です。このような個物に対して他の個物の持つさまざまな性質のうち共通なもの(ある概念)をとりあげて、それに名前をつける。それが言葉の生れる瞬間でしょう。一般的な名辞から概念がうまれ、その概念を用いて世界を分節するというのは逆立ちした考え方ではないでしょうか。世界をさまざまな性質を持った個物相互の運動・関係ととらえ、その構造や関係や個物それぞれの性質をさまざまな概念として把握することがまず先にあって、その後にある概念にある音声を名札としてあてがう。その結びつきが社会的な約束ごとになったときに「言語」が生れるのだと私は考えています。

「分節される」以前に世界はさまざまな明瞭な概念によって把握されている。だからこそ分節された音声はそれと結びつけられる概念を見分けられる。見分けのつかないものに名札を貼ることはできないのだ、というのが私の言葉と概念についての認識です。

そして、名札が必要なのは頭の中にある概念を表現するには知覚可能な物理的な「モノ」が必要だったからでしょう。だから名札は音声でも文字でも手の形でも点の集まりでもなんでも構わないわけです。どの民族も例外なく音声言語を使っているのは表現と受容と習得にあたってもっとも労力を必要としないものが音声だったからだと私は思います。

〔注(2006.08.22)〕

単に「概念」としていたが不適切だった。これは「個別概念」とすべきところであるので改めた。またその直後で「言葉の生れる瞬間」という記述があるが、正確にいえばこの段階ではまだ言葉は生れていない。より正確には「言葉が胚胎した瞬間」とでもいうべきであろう。