ソシュール用語を再規定する試み(1)


〔2006.08.29記〕

「言語langue」「記号signe」(=シーニュ)、あるいはシニフィアンsignifiant」シニフィエsignifie」という言葉はいずれも人間の意識の中に存在するものの名称である。しかし原語(フランス語)をそのまま日本語で表記すると、それらはいずれも現実に表現された現実的な「言語」「記号」「意味するもの」(能記=記号の音声)・「意味されるもの」(所記=記号の意味)となってしまう。ことに「言語」「記号」という表記には別の問題がある。「言語」は言語規範の一つである語彙の規範であって、言語そのものとは異なる。これは不適切な表記といわざるをえない。また語(表現された言葉)は記号の一種ではあるが、語と記号とは違う。したがって「認識された語」を「記号」とするのはこれも不適切な表記である。要するにソシュールによって規定されたこれらの用語はいずれも名が体を表わしていないどころか「名が他の体を表わしている」のである。その上、シニフィアンシニフィエなどはフランス語をそのまま用いることが広く行われていて、普通の日本人にはきわめて分かりにくい。

今日の午後、「概念は「言語」に先立つ(3)」(2006/08/28)を読み返しながら、上のようなことを考えた。もっともそういう違和感は日頃からずっと抱いていたことではある。そこで無謀な試みであることは十分承知の上で、ソシュールによって規定された上記の用語をより適切な日本語の表記に置き換えてみようと考えた。以下はその試み(私案)である。


シニフィアン」→「語韻」:音韻は具体的な言語音から抽出され概念的に把握された音声表象である。したがってシニフィアンは具体的な語音から抽出された音韻であると規定できる。

シニフィエ」→「語概念」あるいは「語義」シニフィエは具体的な語の表わす意義であり、それは個別的な事物や現象・関係などから抽象された普遍的な概念として認識されている。

シーニュ・記号」→「語の観念」ないし「語観念」:社会の構成員がその意識内に形成した一つ一つの語についての認識であり、それは語の音韻とその語の表わす意義(普遍概念)とが結合した観念体である。

「言語」→「語彙規範」ソシュールの規定した「言語」は「語観念」の体系としてつまり語彙の体系として社会の構成員に認識されている規範である。「語彙規範」は言語規範の一部を構成している。

このような表記の置き換えを、「概念は「言語」に先立つ(3)」に適用してみたのが以下である。少しは分かりやすくなったであろうか。ご感想やご提言あるいはご批判が戴けたらうれしい(「語の観念」というのがちょっと泥臭い)。


概念は「言語」に先立つ(3)

〔2006.08.27記→08.29用語の表記を変更

「語彙規範」(言語規範の一部)は個人の認識として存在している。そこで、ある個人の意識のうちに存在する「語彙規範」を構成している「語の観念」の集合を A とし、A の個々の要素を a1, a2, …のように表わす。同様に、「語の観念」を形成する「語韻」および「語概念」(語義)の集合をそれぞれ B, C とし、B, C の個々の要素をそれぞれ b1, b2, …、および c1, c2, …のように表わす。

ある「語の観念」 a1 が b1 と c1 との連合したものであることを a1=b1+c1 と表わすとすれば、A は b1+c1, b2+c2, b3+c3, …を要素とする集合である。つまり、A のある要素 an はかならず an=bn+cn のように表わされるはずである。すなわち an=bn あるいは an=cn のようなものは「語の観念」としての資格を持たない存在である。前者は「語概念」(語義)と結びついていない単なる音声表象であり、後者は「語韻」と結びついていない単独の概念である。このようなものは「語彙規範」を構成する「語の観念」ではない。

前者のような音声表象を頭の中に浮かべることは簡単である。たとえば「りぬこふげ」を黙読してみよう。このとき意識の中で生成した音声表象はなんらの概念も連合していないから、普通の日本人は自らの「語彙規範」のうちにそのような「語韻」を見つけることはできないし、そのような音声表象と結びついた「語概念」を見出すこともできない。つまりこれは「語の観念」ではない。ロシア語をまったく解さない私のような人間にとって、テレビのロシア語ニュースで耳にするアナウンサーの音声の大部分(全部というべきか)は私の意識のうちに存在する「語彙規範」を構成するいかなる「語韻」とも一致せず、それらと対になるいかなる「語概念」「語彙規範」のうちに見出すことができない音声表象として私には認識されている。

それでは後者のような、いかなる「語韻」とも結びついていない概念は個人の意識のうちに存在するであろうか。たとえば私の家の台所には母や妹が買い揃えた調理用の器具がある。私は母や妹がそれらを使って調理するところを何度も見ているのでそれらがどういう目的で使用される道具であるかをよく知っている。つまりそれらを概念的に把握しているのである。ところがそれらの調理器具の中には私がその名前を知らないものがいくつかある。したがってそのような調理器具に関しては私の意識の内には概念はあるが、それと結びついた「語韻」が存在しないのである。すなわちそれらは対となるべき「語韻」を持っていないのだから、私の「語彙規範」のうちにはそれらを表わす概念としての「語概念」は存在しておらず、したがってそれらの概念は「語の観念」を形成していない概念なのである。

私の父は家具や建具など家の内外で使われる木製品を作ったり修理したりする職人であったから、家の工場(こうば)には私が名前を知らない道具がたくさんあった。私はものごころつくころから父の工場で父がものを作るのを見るのが好きで何時間も飽かずにそれを眺めていることが多かった。形も大きさもさまざまなそれらの道具をとっかえひっかえ父が用いているのを何度も見ているうちに私はそれらの道具がいかなるものかをほとんど把握してしまった。それらは用途別に道具棚や引き出し・小箱等にきちんと整理されて置いてあったから、たまにしか使わない道具であってもその用途はだいたい分かった。しかし、ノコギリやノミ・カンナ・カナヅチ…といったよく耳にする道具の名前は覚えたが、そうではない多くの道具については私はその名を今でもほとんど知らない。それは塗料や接着剤や釘類・ヒモ類・定規類等々についても同じである。

このような経験は日常生活や友達との遊びなどにおいてもよくあることである。名前は知らないがそれがどんなものであるかは知っているというのは言語の習得過程においてはそれほど珍しいことではないし、大人になってからも経験することである。名前を知らないままでいることも珍しくはない。

「語彙規範」の習得過程は「語の観念」の獲得過程であり、経験によって概念を類別し、分類しながら「語概念」を正しく「語韻」と結びつける過程である。しかし上に述べたように「語韻」「語概念」が対にならずそれぞれ単独で存在しているような「語の観念」はあり得ない。しかし、「語の観念」の獲得過程ではいまだ「語の観念」になっていない「語韻」「語概念」、つまり「語概念」(語義)ときちんと結びついていない単独の音声表象や、結びつけるべき「語韻」を持っていない単独の概念が存在しているのが普通である。

言語習得の初期段階にある幼児が母親に「あれは犬(だよ)」と指摘されても「あれ」「犬」という音声表象と、「あれ」の指し示す関係概念やそこにいる犬の普遍概念とを、つまり「語韻」「語概念」とをきちんと把握しているかどうかは疑問である。幼児は同じ種類のものごとや異った種類のものごとなど、さまざまなものごとと出会いそこで周囲の大人や年長者からその名前を教えられあるいはみずからその名前を尋ねながら、「語韻」「語概念」とを結びつけ「語の観念」を獲得していくのであるが、ある「語韻」と結びつくべき正しい「語概念」を形成し獲得するにはそれら個別のものごとから個別の概念を抽出し、そこで得られた個別概念から「語韻」に結びつけるべき普遍概念たる「語概念」を作り出さなければならないのである。つまり、ある特定の犬を見てそこから「動物」という「語の観念」を獲得するときと「犬」という「語の観念」を獲得するときとでは、個別概念から抽出し形成する普遍概念が異なるのである。

このように「語韻」と結びつけるための「語概念」を形成するには、それ以前にさまざまな個別のものごとから抽象される個別概念をもとにしてそこから「語韻」に結びつけるべき普遍概念を抽出し、その他の不要な属性を捨象するという過程が必要なのである。

ある個人の意識において、「語の観念」「語の観念」たる資格を得て、「語彙規範」の中に一定の位置を占めるためには、「語韻」だけでは足りないのであって、その個人はそれと結びつけるべき「語概念」を意識の中に正しく形成しなければならない。そして「語概念」を形成するには、経験的に(実践的に)対象から個別概念を抽象しさらにそこから普遍概念を抽出しなければならないのである。つまりさまざまな個物から抽象された個別概念がなければ「語概念」を形成することができず、「語概念」を形成することができなければ「語の観念」は生れないのであるから、そのような音声表象(「語概念」と結びついていない「語韻」)を覚えただけでは「語の観念」の体系たる「語彙規範」は更新されないのである。つまり「語の観念」の獲得とは、名と実すなわち「語韻」「語概念」とを意識のうちで正しく結びつけ対にすることである。

逆に概念のみがあってそれが「語韻」と結びついていない状況というのもある。個人が日々の生活の中で認識している概念つまり個別概念は多種多様にわたっていて、それと自覚せずにそれらの概念を意識の中で認識しながら行動している。それらの個別概念にはさまざまな側面があるので同じ個物であってもどの側面からそれをとらえているかによって概念的な把握の仕方が異っている。しかもその概念的な把握の内容は多様であるからそれら個々の概念にすべて名前がついているわけではない。私の目の前にある湯呑み茶碗にしても、中に茶が入っている状態と空っぽの状態とでは私の認識する概念は異なる。あるときにはこの湯呑み茶碗は本を読むのに邪魔な存在として私の認識に現われる。あるいは「食用にするニシンの卵」という概念には対になる「カズノコ」という「語韻」が存在するが、「メダカの卵」という概念は存在してもそれと対になる「語韻」は日本語には存在しない。このような例は他にもたくさんある。むしろ多様な現われ方をする概念の多くにはそれと対になるような「語韻」が存在していない。したがって、それらの概念は「語の観念」の構成要素とはなっていない。いいかえれば、概念の中には「語韻」と結びついていないために「語の観念」の構成要素となっていないものがいくらでもあるのである。

私たちが意識の内容を言語表現するときに、ある個別概念をどのように表現すべきか悩むのはそれらをどのような側面から(つまりどのような概念として)把握しているかを一言で表わす「語の観念」が存在しないことが多々あるからである。それゆえさまざまな修飾語句を補ったり喩えなどを用いたりしてなんとかその概念を表現しようと努力しなければならない。また、反対の立場で他者の表現した言語を受容するときにも、表現された「語概念」(普遍概念)だけでは表現者が表現したいと思った概念を正確に自分の意識の中に映し出すことができないために、表現者の立場や感情などを考慮し、文脈を読み取り、表現された他の語句の助けを借りたりしてなんとか表現者の表現過程を追体験して表現者が表現しようとした概念をできるだけ正確に映し出す努力が要求されるのである。

最後に、もう一度最初の数学「的」記述に戻って結論をいうと、「語概念」と結びついていない単独の音声表象 bn あるいは「語韻」と結びついていない単独の概念 cn が人間の意識の中に別々に存在することは実は当たり前のことなのである。夫および妻となるべき一人以上の独身の男、一人以上の独身の女が別々に存在していなければ新たに一組の夫婦も生れることができないのと同じで、「語概念」と結びついていない単独の音声表象 bn と「語韻」と結びついていない単独の概念 cn とが意識内に生成していなければそれらを結びつけて、bn+cn という形の 「語の観念」を新たに構成することはできないのである(ただし多語一義や一語多義のような形態も存在するから厳密にいうと「語彙規範」においては「重婚」も例外的に許容されている)。そして、個人としての人間がさまざまな個物との接触によって意識の中に抽象した個別概念がそもそも存在しなければ、その個別概念からさらに抽象される普遍概念たる「語概念」を形成することはできないのであり、ひいては「語彙規範」の獲得や訂正あるいは更新・体系の変化すら不可能なのである。