『ことば・その周辺』その後

2006年1月23日から2007年10月30日までの FC2ブログ版『ことば・その周辺』の記事タイトルです。これ以降の記事は直接『ことば・その周辺』でご覧下さい。また、カテゴリー別のタイトル一覧は「カテゴリー別全記事インデックス」(FC2) で見られます。


2007.10.30 割り算から見た量(2)――絶対量と相対量
2007.10.28 割り算から見た量(1)――内包量と外延量
2007.10.19 ブログ・リニューアル(4)――記事の表示順を変更しました
2007.10.18 存在と対象(4)――対象的なものは存在する
2007.10.17 存在と対象(3)――非存在という概念
2007.10.15 存在と対象(2)――現象するものは存在する

2007.10.07 概念は「言語」に先立つ(5)
2007.10.07 0の概念・マイナスの概念(2)――量概念からの抽象
2007.10.06 ブログ・リニューアル(3)――元のテンプレートに戻します
2007.10.04 ノートパソコンの発熱(3)――ケースファン・その後
2007.10.03 思い出の曲ノート――YouTubeほか
2007.10.02 0の概念・マイナスの概念(1)――マイナス概念の形成

2007.10.01 Gom Player の映像が真っ暗――Styler との相性
2007.09.29 ブログ・リニューアル(2)――本文のフォントサイズを変更
2007.09.28 ブログ・リニューアル(1)――ようやく一段落
2007.09.27 「イラク・パレスチナ・チェチェンリンク」
2007.09.15 いつの間に……
2007.09.05 GOM Player 2.1.6――多形式対応の動画プレイヤー

2007.09.03 DownloadHelper 2.4.1――動画ダウンローダー
2007.08.23 ノートパソコンの発熱(2)――ケースファンで冷却
2007.08.17 ノートパソコンの発熱(1)――USB扇風機で冷却
2007.05.04 WinAmp の旧バージョン
2007.04.29 Bフレッツに四苦八苦中
2007.04.15 ホームページ変更のお知らせ

2007.03.28 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(3)
2007.03.27 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)
2007.03.22 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)
2007.03.17 軌道修正
2007.03.12 コマンドプロンプトで使用するフォント
2007.03.06 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(5)――最終

2007.02.28 メイリオのディセンダを変える
2007.02.19 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(4)――番外
2007.02.17 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(3)
2007.02.13 WinAmp の表示をメイリオ系にする
2007.02.09 JIS2004対応 MSゴシック・MS明朝
2007.01.30 Styler 1.401(2)――手軽で便利な Styler

2007.01.28 シニフィエについて
2007.01.23 STC fontBROWSER

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(3)

〔2007.03.28記〕

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)で引用したうちの後の方の二番目の段落で、ルフェーブルが「意味はあらゆる側面から他のものへわれわれを送りかえす。一方においては、過去へ、既得の知識へ、現在性へ、記憶へと、――他方においては、潜在性へ、可能性へ、意味を担った知覚場の多様性へと送りかえすのである」と書いている部分について三浦は「表現主体のつくり出した概念」あるいは「直接に表現されていない表現主体の独自の認識の部分」であるといっている。つまりルフェーブルが「意味」であると考えているものは実は表現者が言語のうちに表現した個別概念である、と三浦は指摘している。しかし、ルフェーブルはこれを表現者とは関りなく受容者が自ら作り出すものだと考えている。

前稿で書いたように構造言語学ソシュールの解釈を鵜呑みにして連合関係(語規範)から連辞関係(内言)や言語表現が作り出されると考えるので、表現された言語の意味は受容者が連合関係(語規範)と連辞関係とから勝手に解釈するものだという風に短絡して考える。これは構造言語学(ソシュール)が「受容過程における『連辞関係』の成立を表現過程に直結させ表現過程を受容過程に還元してしまっている(言語と内言――言語の意味)からであり、それは内言を作り出しているつもりのソシュールが無自覚のうちに内言を観察・受容する立場に移行し、受容者の立場で「言語単位」の成立を説明しようとしたからである(ソシュールの「言語」(4)――「言語単位」と「価値」)。しかしソシュールが言語単位の成立を神秘のヴェールの陰から覗き見ることしかできなかったのは彼自ら告白している通りである。

ルフェーブルは連合関係(語規範)と連辞関係とから意味が生れるとするソシュールの解釈をさらに拡大させ、連合関係(語規範)のみならず表現とは直接関係のない「社会」および「他の実践的諸形態」と「言語」(連辞関係)との関係で意味が生じると考えている(このような解釈を度外れに拡大すると、表現でないものの中に勝手に意味を見いだして、実際には記号(記号規範に媒介された表現)でも象徴(直喩的・隠喩的な表現)でもないものを記号や象徴と見誤るバルト流の解釈に行きつく)。

にもかかわらず(というよりソシュール的思考の裏返しとして)ルフェーブルもまた無自覚のうちに受容者の立場から表現者の立場に移行し、知らず知らずのうちに表現者の〈対象→認識→表現〉過程を逆にたどり、表現過程を追体験しているのである。そして、その追体験においてルフェーブルの意識の中に生じている個別概念のさまを生き生きと語っているのが上記の引用部分(「知覚場の多様性」)なのである。

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(『言語学記号学勁草書房所収)


言語の話し手や書き手は、統一された全体としての思考をもっていて、その表現に際して概念の部分を表面化することになる。この表面化は、聞き手や読み手がその観念的な追体験において、同じ統一された全体としての思想を複製するための、いわば手がかりである。ルフェーブルが言語の意味とよんでいるのは、表現を対象とする追体験において、表面化している概念以外にいろいろな他のものを感じとることをさしている。意味を、統一された全体の思想によって形成されるものとして、過程的構造のありかたから理解するならば、彼が意味作用とよぶものも実は意味の一部であって、両者を切りはなして対立させるべきではないくらい、すぐ判ったはずである。そしてルフェーブルの切りはなしは、意味作用とならべて意味を聞き手・読み手の側で受けとるものとして扱っているために、表現を対象とする追体験でなくても、「あらゆる側面から他のものへわれわれを送りかえす」ような事物それ自体は「意味を帯び」ているのだという、バルト的発想へのふみはずしを準備していたのである。たとえば、多種多様の商品によって形成されている現実の世界も、「独自のやりかたで、すなわち特定的に、ひとつの記号体系、ひとつの言語、ひとつの記号学の場を構築している。」と、解釈するのである。精神的交通、表現主体の思想の追体験による複製という問題で、表現において意味が形成されると考えず、対象が意味と関係があることから対象それ自体が意味を帯びるのだと考えるなら、商品が意味を持っていて記号と同じように記号学の対象となる思いこむのも不思議はない。

こうしてルフェーブルは、商品はそれらを買うことができるという「意味」を持つから記号なのだとか、それらは楽しみを与えてくれるという「意味」を持つことで、「約束されてはいるが手に届かない享楽の記号」であるとか、バルト的な解釈をならべていく。さらに、金や装身具やダイヤモンドその他の宝石などは、そこから富や富が与えている権力を感じるから、象徴であるともいう。彼は、宝石商のショーケースに入っている商品それ自体を象徴とよぶのであって、それらを身につける人間がそのことで自分の富や権力を他の人間に示すという、表現によって象徴が成立すると考えるのではない。こんな記号や象徴の説明は哲学者の思弁的な解釈であって、マルクス主義でも何でもないし、この主張が科学的な記号論だなどと自惚れるとすれば、チャンチャラおかしいのである。(p.30〜31)

(関連記事)

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)

〔2007.03.27記〕〔03.28(注)他を追記

さて、言語学の分野では表現された言語(自然言語)の意味とは何かということについての定説が存在しない。つまり、意味論が確立されていない。その中では最近よく耳にするようになった認知意味論は三浦の関係意味論に比較的近いといえるかもしれない。三浦の関係意味論はある意味でマルクスがその著作の端々で触れている言語についての断片を系統的にまとめたものとみることができる。つまりマルクスはすでに言語の意味について商品の使用価値や交換価値、意識の外化・対象化(疎外概念を含む)といった概念のもとで語っているのであり、関係意味論に欠くことのできない観念的自己分裂つまり、人間の対象意識の運動についても語っているのである。また、ふつうの人々も表現された言語の意味を直観的につかんでいるのであり、そうでなければ人類がかくも長く言語を用いた意思疎通を行ってきたことを説明できないし、人々がさまざまに工夫して自分の意志や意図を他者に伝え、他者の意識やその伝えたい内容を的確につかみ取ってきたことも説明できない。にもかかわらず、三浦のいうようにいざ言語の意味とは何かを問われると言葉につまってしまうのである。

このことは言語とは何かについて一致した見解がないということも含めて、現在の言語学において主流となっている構造言語学の限界を端的に示している。したがって、言語とは何か、意味とは何かについての構造言語学の「解釈」はまちがっているのである。そもそも、構造言語学は意味論どころか意味を形成する上で最重要な位置を占める概念についての把握、つまり概念論ですでにつまづいているのである。

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(『言語学記号学勁草書房所収)


 言語表現においては対象から認識へすなわち表現されるべき概念の成立する過程的構造は表現されることによって止揚されている。つまり、背後にふくまれており表現に関係づけられてはいるが、直接にあらわれてはいない。音声の種類において関係づけられているこの過程的構造を、音声の聞き手は逆にたどって追体験していくときに、意味をとらえ意味を理解したというのである。意味とはすなわちこの表現に止揚されている過程的構造であり、音声の持つ関係をさすことばである。表現される概念は、意味を形成する実体であるが、それ自体が意味ではない。概念それ自体が頭からぬけ出して音声のうえにこびりついているわけではない。ソシュールlangue の概念のみを概念と解釈して、「なにもかも、聴覚映像と概念とのあいだで、それ自体のために存在する・閉ざされた領域と見なされた語の限界内で、おこる。」と考えたのだから、事実上意味を形成する実体である表現される概念のほうを、理論的に追放してしまったわけである。彼は理論的に追放しても、実際には langue の概念とは別個の新しく成立する異質の〈個性的な〉概念が表現されるのであるから、学者たちは何らかの形でこの二種の区別と連関をとりあげることを強制されないわけにはいかない。哲学者はどういうかたちでとりあげたであろうか?(p.28)

言語表現における〈対象→認識(意識)→表現〉過程を図示するとつぎのようになる。

  対象(普/特)個別概念(普/特)語概念(普)⇔語韻(普)語音(普/特)


(注) 対象(普/特)および個別概念(普/特)における(普/特)は、言語に表現される現実の事物つまり対象が個別の事物であって、それぞれがさまざまな普遍的・特殊的な性格や属性をもった存在であること、またそれらが認識され概念的に把握された個別概念もまたそれぞれの状況や条件に応じて合理的につかみとられたさまざまな普遍的・特殊的な概念をともなう表象であることを示している。また〈語概念(普)⇔語韻(普)〉は語規範であり、そこにおける語概念・語韻はともに普遍的な概念形態をとった対象認識・規範認識であることを示している。最後の語音(普/特)の「普」は言語音における普遍的な側面つまり音声が種類としての普遍的な性格(音韻)をもったものであることを示しており、「特」は音の特殊な側面つまり個人における音声がそれぞれ特殊な性格(音声の質:高低や大小など)をもったものであることを示している。〔03/28追記

たとえば、「家の前に白くて尻尾の長い小猫がいた」という表現において〈対象→認識(意識)〉過程では、「小猫」という普遍的・特殊的な把握は言語化される以前に「白い」「尻尾の長い」といった他の普遍的・特殊的な把握と同時に「可愛らしい」とか「これまで見たことがない」とか「ひもじそうな」とかといった普遍的・特殊的な把握やそれらを含む無数の普遍的・特殊的な把握をともなった個別的な概念すなわち個別概念として認識されている。

この対象を「コネコ」という音声で表現する過程は、現実の小猫(普/特)「小猫」個別概念(普/特)語概念「小猫」(普)⇔語韻/コネコ/(普)語音「コネコ」(普/特) のように図示できる。したがって語規範〈語概念「小猫」(普)⇔語韻/コネコ/(普)〉に媒介される過程で、表現者が把握した現実の小猫のさまざまな普遍的・特殊的な認識(個別的な認識=個別概念)のうち普遍概念「小猫」以外の認識は、表現された語音「コネコ」においては、事実上捨象されてしまっている。しかし、表現された「コネコ」という語音の背後には語規範〈語概念「小猫」(普)⇔語韻/コネコ/(普)〉に媒介される形で「小猫」個別概念(普/特)がつながっているのであり、さらに「小猫」個別概念(普/特)を介して現実の小猫(普/特)がつながっているのである。

このことを三浦は「表現されるべき概念の成立する過程的構造は表現されることによって止揚されている」と、上の引用文でいっている。つまり、語音「コネコ」においては普遍概念「小猫」以外は捨象されてしまっている(「直接にあらわれてはいない」)が媒介的・間接的なつながりとして「小猫」個別概念(普/特)現実の小猫(普/特)が表現の背後に目に見えない関係として保存されている(「背後にふくまれており表現に関係づけられてはいる」)のである。ヘーゲルマルクス・エンゲルス、三浦のいう「止揚」とは「抽出・抽象(捨象・廃棄)の背後に捨象・廃棄されたものが目に見えない関係として保存される」という意味を持った動的・過程的な概念なのである。

したがって、「音声の種類」(語韻)と語概念すなわち語規範において関係づけられている」(媒介されている)「この過程的構造を」「逆にたどって追体験していく」ことによって「音声の聞き手は」「意味をとらえ意味を理解」するのである。この受容過程(観念的な追体験過程)はつぎのように図示される。

  語音(普/特)語韻(普)⇔語概念(普)個別概念(普/特)→(対象(普/特))

  語音「コネコ」(普/特)語韻/コネコ/(普)⇔語概念「小猫」(普)
  →「小猫」個別概念(普/特)→(現実の小猫(普/特))

以上を一言でいい表わすと「意味とはすなわちこの表現に止揚されている過程的構造であり、音声の持つ関係をさすことばである」ということになる。

ソシュールは思想の中に存在している個別概念を的確につかむことができず、思想を不定形の(観念の)塊と考えてしまったから、この個別概念を「言語学の究極的単位としての諸区分(=言語単位)」としてとらえたものの、これが語規範の媒介を経て言語として表現される意識内の実体であることに気がつかなかった。結果的にソシュールは個別概念を概念としてとらえることに失敗したわけである。いい換えれば、ソシュールは個別概念を言語単位としてとらえその内容(特殊と普遍とを統一的にとらえた概念)を「価値」と呼んではみたものの、その「価値」が、表現者がつくり出そうとしている「使用価値」すなわち言語の意味を形成する本質であることには気づかなかったのである。その結果、ソシュールは言語単位(個別概念)を根源的なものと直観したにもかかわらず、媒介として働く連合関係(語規範)の概念(普遍的な概念=「交換価値」)の方をより根源的なものと見誤って、それから言語単位が、そして連辞関係(内言)が生まれると考えたのである。後の構造言語学者たちは、それを鵜呑みにして語規範を形成している語概念(普遍的概念)のみを概念と呼び、それ以外の概念(特殊的・普遍的概念=個別概念)の存在を完全に抹消してしまった(「事実上意味を形成する実体である表現される概念のほうを、理論的に追放してしまった」)。

〔03.28追記

規範概念(語概念)以外の概念の存在を抹消してしまった構造言語学構造主義の立場をとる人たちには、個々の人間の意識の中には個別概念から止揚されて形成される普遍概念が語韻と結びつかない状態で存在することなど思いもよらないことなのであろう。しかし、個々の人間の世界観を形成する概念の中には語規範の概念だけでなく、現実からもたらされ形成された生き生きとした個別概念・普遍概念が数多く存在しているのである。それに語規範の概念は元はといえばこのような個別概念・普遍概念から形成されるのである。


 マルクス主義哲学者と名のるルフェーブルは、『言語と社会』(以下の引用は広田昌義の訳文による)で、構造言語学以前の学者たちが「意味作用(signification)と意味(sens)を混同していた」という。そしてまた、「音楽場の分析は、われわれの見るところ、意味と意味作用との混同によって理解し難いものにされてきた。ある音楽作品は意味をもつが意味作用はもたないのである。」と主張する。そして両者の性質をつぎのように規定する。「意味作用は正確で抽象的だが、内容に乏しい。意味は内容に富んでいて錯雑しているが、汲みつくすことができない。汲みつくすことができる意味とは意味ではない。あるいは意味ではなくなっているのである。意味作用は字義的である意味はあらゆる側面から他のものへわれわれを送りかえす。一方においては、過去へ、既得の知識へ、現在性へ、記憶へと、――他方においては、潜在性へ、可能性へ、意味を担った知覚場の多様性へと送りかえすのである。」つまり、ルフェーブルは言語の表現内容から、概念として音声や文字の種類によって直接に表現されている、規範の概念に対応する部分と、直接に表現されていない表現主体の独自の認識の部分とを切りはなし、前者は意味作用で後者は意味だと区別するのである。これは規範の概念と表現主体のつくり出した概念との区別と連関が理解できないために、後者の概念が前者の概念の機能としてすなわち前者の作用において成立したかのように錯覚したのである。音楽においては、ある楽章の中で主題が展開され発展していくかたちをとるが、この主題に相当するものが言語の意味作用で、内容の乏しい抽象的な存在だと解釈したわけであるから、これも規範についての無理解から生れた解釈ということができる。

 それでは、意味の発生についてルフェーブルはどう考えているか? 「意味の発生は複雑である。それはどのようにして、また、だれのために、何によって産出されるのか? 意味が生れるのは言葉の中にか、あるいは可感的なものの中にか、それともその両者の関係の中になのか? それはどのようにして可感的なもの(知覚されたもの)の中に、超言語的なある場を構成するような仕方で、投入されるのか? これらの継起的な、あるいは同時的な、活動は言語の内部においてではなく、言語と社会、あるいは言語形態と他の実践的諸形態(内容も同様に問題になる)の間の関係の中で展開されるのである。」どうしてこんな問題の立てかたをするのか、そこから考えてみよう。われわれが「家」と表現するとき、この表現された概念には表象や感覚が含まれているし、さらにこれらの認識は対象である現実の世界の事物に根ざしている。つまり、「家」の意味は、対象である現実の世界の事物にむすびついており、この事物をとりあげている。けれどもこの事物を意味とよべるのはあくまでも言語に表現したからであり表現の過程的構造に関係づけられているからであって表現なしに事物それ自体が意味であるとか意味をもっているとかいうことはできないそれゆえ言語の意味は表現において過程的構造を止揚することによってすなわち言語の内部において成立するのである。ルフェーブルは止揚ということばを知ってはいても、表現が止揚であることを理解できなかった。そして「言語と社会、あるいは言語形態と他の実践的諸形態」との関係で、言語の外部で事物それ自体が「意味を帯びる」のだと解釈した。「無意味なものが意味を帯びるのである。一九世紀中葉以前、マルクスの著作以前には、人間の労働とプロレタリアートの貧困はキリスト教的慈愛とユートピア主義者にとってしか意味をもっていなかった。以後それは政治的、歴史的意味をもつようになった。そのことはマルクス主義の思想に影響をもたせた広汎な運動(社会主義)によって始めて可能になったのである。」こうしてバルト的意味論への道が準備されるのであるから、ルフェーブルがバルトを大いに賞めちぎったのも不思議はない。(p.28〜30)

ここは解説の要はないであろう。ただ最初の段落の最後の部分「この主題に相当するものが言語の意味作用で、内容の乏しい抽象的な存在だと解釈した」というのは間違いであろう。この段落の最初のところに引用されているルフェーブルの「ある音楽作品は意味をもつが意味作用はもたないのである」から判断して、ルフェーブルは音楽作品には「意味作用」がないと考えていたと思われる。つまり音楽作品には言語規範の語概念に相当するような規範概念が存在しないゆえに、「言語の意味作用」すなわち規範に媒介される過程に相当する過程が音楽作品には存在しないとルフェーブルは考えたのであろう。

また二番目の段落の太字部分はきわめて重要であって、言語過程説の関係意味論の根幹をなす部分である。意味は表現された言語なくしては存在しない。記号表現も同様であって、表現された記号なくして事物そのものが意味をもつと解釈する構造主義的記号観(バルト的記号観)は記号概念を度外れに拡張した結果、もたらされた大いなる錯誤=誤謬であるとしかいいようがない。

(関連記事)

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)

〔2007.03.22記〕〔03.23追記

『ことば・その周辺』というブログタイトルに関連する記事としては、最近(といっても2ヵ月も前の記事であるが)書いたのが「シニフィエについて」であり、その前が「言語と内言――言語の意味 」であった。この時期の私の関心はソシュール言語学に関わる形で「言語の意味とは何か」ということに向いており、今もなおその志向は変っていない。さらにいえば、私が子どもの頃から言葉というものにずっと興味を抱きつづけてきたのは言葉のもつ「意味」の不思議さに惹かれていたからだといっても言い過ぎではない。その不思議さを腑に落ちる形で説明してくれた唯一のものが三浦つとむの言語過程説であったということが、私をしてかくも長く三浦つとむにこだわりつづけさせる第一の要因なのだと今にして思う。

三浦は言語の意味(内容)について『認識と言語の理論 第二部』(勁草書房)において非常に詳しく論じている。ここではそれを取り上げるわけにはいかないので(引用するには分量が多すぎる)、それとは別にとくにソシュールや構造言語学に言及する形で言語の意味を語っている『言語学記号学』(勁草書房)所収の「言語学記号学」という論文の第四節「意味とは何か、どこに存在するか」を引用して私なりの考え・感想を書いてみたい。なお引用にあたって傍点は傍点のように表記した。

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(『言語学記号学勁草書房所収)


 こうして見てくると、言語規範が言語表現を媒介する過程的構造を正しくつかめないことに言語学のぶつかっている大きな壁の一つがあり、ここから記号規範が記号表現を媒介する過程的構造を正しくつかめないという記号学の壁も生れていることが、大体予測できるはずである。そしてこの壁はまた、言語や記号の意味について正しい理解を持つことを妨げているのである。

 言語学はもちろん、記号学でも意味論を欠くことができないし、意味論でふみはずすと言語学記号学もズッこけてしまう。われわれは経験から、ごく素朴に、音声言語や文字言語それ自体意味を持つものとして扱ってはいるが、意味とは具体的にどんなものかそのありかたを説明してくれといわれると、返事に苦しまなければならない。音声や文字をどんなに調べてみても、それに意味とよぶにふさわしい実体がふくまれているわけではないし、また音声や文字が言語であるか否かにしても、それらの物質それ自体によって決定されているわけではなくて、それらが表現主体によって特定の形態を与えられているか否かで決定されているのである。それで、ソシュールも、「言語は形態であって、実体ではない。ひとはこの真理をいかにふかく体得しても充分ということはない。」と強調したのであった。

 それでは意味はいったいどこに存在するのか? この解釈には二つの異った系列が生れている。一つは主観の側に存在するという解釈で、時枝誠記も『国語学原論』でこの解釈を採用し、「文字によって或る意味を理解したことから、文字が意味を持ってゐると考へるのは、主体的な作用を客体的に投影することで」あると、意味を読み手の側に持っていった。この意味の主観化が極端にまで達すると、世界それ自体はカオスで無意味な存在で、人間は言語によってそれに意味を与えるのだという、鈴木孝夫的な解釈にも行きつくことになる。そしていま一つは意味をあくまでも表現の側に実在すると解釈する系列で、ソシュールlangue も意味と関係づけて説明されている。langue は言語規範であるから、彼の langue の説明にも、規範が表現を媒介するという事実が反映しないわけにはいかなかった。「思想と向かい合っての langue 独特の役割は、観念を表現するために資料的な音声手段をつくり出すことではなくて、思想と音との仲を取りもつことである。」そうだとすれば、その思想と langue を構成するところの概念とが、この「取りもつ」ことでどう関係づけられるかを説明しなければならないが、この関係の正しい解明は彼の手にあまったのである。「いささか神秘めくが、『思想・音』は区分を内含し、langue は二つの無定形のかたまりのあいだに成立しつつ、その単位をつくりあげるのである。」と、langue における概念の成立すら神秘的なもののようにしか説明できなかった。(p.25〜26)

三浦によるソシュールの引用には注釈が必要である。三浦は私がかつてやったのと同じ誤読誤解をしている〔私の誤読・誤解については ソシュールの「言語」(1)〜(3)、誤読「言語の法典を利用するさいの結合」を参照――03/23追記。しかし、それは三浦の責任というよりも翻訳者の小林英夫の責任に帰するところが大きい(ソシュールの講義録そのものに直接当らなかったという意味で三浦にも責があるが、講義録の存在が明らかではなかった当時それは不可能であったろう)。しかし、小林訳の『一般言語学講義』を忠実に引用していないという意味では三浦は責められて然るべきである。つまり、三浦は小林が「言語」と翻訳している部分はすべて “langue” であると誤解して引用文の「言語」を “langue” に改めてしまっているのである。詳しくは「ソシュール「言語学」とは何か(6)」で引用した小林訳『一般言語学講義』を参照していただきたいが、三浦の引用した部分はつぎのようになっている。

思想と向かい合っての言語独特の役割は,観念を表現するために資料的な音声手段をつくりだすことではなくて,思想と音との仲を取り持つことである
いささか神秘めくが,『思想・音』は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである

ソシュール言語学」とは何か(6)」には該当する「一般言語学第三回講義」の部分も引用してある(前田英樹訳『ソシュール講義録注解』)。その該当部分の和訳はそれぞれ「思考に対することば特有の役割は、音的、物質的手段たることにあるのではない。それは、思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような、そういう性質の中間地帯を創りだすことにある」および「そこにあるのは、思考−音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない」となっており、一つ目の文で小林が「言語」と訳している部分が「ことば」と訳されている。二つ目の文で小林が「言語」と訳している部分に相当しそうなのは「これらの単位」および「中間地帯を創りだすことば」である。

前田はこの著書では “langue” を「言語」、“langage” を「ことば」という風に訳し分けているから、小林が言語と訳した一つ目の部分は “langue” ではなくて “langage” であり、二つ目の部分は「言語単位」および “langage” だったと思われる。そのため、小林訳の該当部分をその先を含めて読むと非常に奇妙な表現になっている。

上記のように三浦が引用した二つ目の部分は、前田訳の『講義録注解』では「そこにあるのは、思考−音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない」となっており、これに対する小林訳は「いささか神秘めくが,『思想・音』は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである」になっている。小林訳によれば「言語」が「二つの無定型のかたまりのあいだに」自身で成立しつつ「単位をつくりあげる」というのであるから、言語自身が自らをつくり出すかのような奇妙な表現になっている。しかし前田訳から読み取れるのは、“langage” が「創りだ」した「思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような」「中間地帯」で「混沌とした思考」が「ことば(langage)によって諸単位に配分される」ということである。この「中間地帯」とは「内言」の領域であり、配分された諸単位とは「連辞」つまり「内言」(langue)であるから、ソシュールは「言語能力(langage)によって内言(langue)がつくりだされる」といっているのであって、「言語規範(langue) が 内言(langue) をつくりだす」などという訳のわからないことをいっているわけではない。

したがって三浦のいう「langue における概念の成立」というのは誤解であり、正しくは「langage による言語単位の成立」である。ただ、そうだとしてもソシュールが言語単位の成立を神秘的なものとしてしか説明できなかったことは事実であるし、ソシュールも後の構造言語学者たちもこの言語単位の価値をシニフィエと呼んでいるのだから三浦がこれを言語規範におけるシニフィエつまり普遍概念(意義)だと誤解したのも無理からぬことであった。そして、言語単位の成立における言語規範(langue)の媒介ということについてもソシュール自身は明言してはいないが、言語単位の成立や言の成立に連合関係(langue)が関与していることはソシュールも認めているから、ソシュール言語学に「規範が表現を媒介するという事実が反映し」ているという三浦の指摘は正しい〔つまり、「思考に対することば特有の役割は、音的、物質的手段たることにあるのではない。それは、思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような、そういう性質の中間地帯を創りだすことにある」「そこにあるのは、思考−音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない」の部分は、語規範の媒介によって個別概念に語音像が結びつけられる過程に対するソシュールなりの解釈を示していると思われる――03/24追記


 思想は概念的な把握であるから、そこに感性的な区切りはないが、概念としての超感性的な区切りが存在しているこれがなければ言語規範を用いる契機が存在しない。それゆえソシュールも、思想を「無定形のかたまり」とか「星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない」とかいいながら、そこに「区分を内含している」かのように感じないわけにはいかなかった。思想は、そのよって立つ現実の世界のありかた、すなわち概念に反映した対象のありかたによって必然的に区切られているのであって、さもなければ思想相互の客観的な区別すら存在しないことになろう。ソシュールおよびその学派の学者たちは、langue が「思想と音とを取りもつ」事実を、合理的に説明できなかった。そのために時枝が小林の langue の説明に対して、「語が文脈に於いて話手の内面的生活を表現し、又文脈に於いて語が個性的となり、性格的となるといふことは、『言語(ラング)』の使用によって実現することであると考へられてゐるが、それに先立って、話手が一の『言語(ラング)』を他より優先的に選択し、使用するについては、素材と『言語(ラング)』の間に、如何なる契機の存在があつて結合せられるかを問ふことなしにこの問題は解決し得られないと思ふのである。」と指摘することにもなったのである。

 とにかくソシュールのいうように、langue の意義すなわち言語規範によって規定される辞書的な意義が、「聴覚映像の反面にほかならない」とすれば、音と思想が不可分で両者の結合が形態として存在する以上、現実の音声のいわば裏側に言語の辞書的な意義が存在することになる。ソシュール派の学者は、われわれが言語から直接感覚で受けとるのは音の側面で思想ではなく、思想は音と形態を同じくする「透明」な存在として結合していて、これが意味だと解釈した。いずれにしても、ソシュールおよびその学派の学者たちの意味論は、意味を表現の側に実在すると主張はしたものの、神秘的な説明から抜け出すことができなかったのである。(p.26〜27)

三浦の指摘する「langue が『思想と音とを取りもつ』事実」とは実は「langage が『思想と音とを取りもつ』事実」のことであるが、“langage” は前田のいうように「言語能力・言語活動」全般を指しており、それにはものごとを概念的に把握する能力つまりものごとを個別概念として把握する能力や、言語規範を身につけその規範意識のもとで言語規範を媒介した言語表現をする能力も含まれているのであるから(「“langue”“langage”」を参照)、誤解とはいえ狭い意味では三浦のいうように「規範が表現を媒介する事実」と解してもあながち的外れではない。

いずれにせよ、言語(実は「内言 langue)が言語規範に媒介されて成立する契機についてソシュールは何も説明できなかったという時枝、三浦の指摘は的を射ている。

〔2007.03.23追記

思想は、そのよって立つ現実の世界のありかた、すなわち概念に反映した対象のありかたによって必然的に区切られているのであって、さもなければ思想相互の客観的な区別すら存在しないことになろう」という三浦の指摘はソシュール言語学の最大の瑕疵を突いている。そしてこの瑕疵はソシュールが自己の言語学を静態言語学と規定したことから必然的に生じたものである。連合関係(語規範)および連辞関係(内言)についてのソシュールの分析は緻密であり、言語学にとって大きな貢献をなしたことは確かである。しかし、連合関係(語規範)を固定的・静的なものと規定したことによってソシュールは、連合関係(語規範)がいかにして形成され、連辞関係(内言)がいかにして生じるか、その動的な過程を分析する目を自らふさいでしまった。それがゆえに連辞関係(内言)の形成や言語表現において連合関係(語規範)が媒介として働くことに気がつかなかったのである。いかなる現象であってもその全過程をその考察の対象としなければそれを解明することはできない。自然科学においては当たり前のこのことがソシュールには分からなかったのであろう。ソシュールは自らの言語学を科学と考えていたようである。細胞分裂の過程を研究するために生物学者がかつてある状態をプレパラートに固定して観察したように、ソシュールもまた連合関係(語規範)を固定したものとして扱った。しかし、プレパラートに固定された状態は細胞分裂の過程の一部であって、そこから細胞分裂の全過程を解明することはできない。同様に、人間の認識・意識がどのようにして生じ、それがどのようにして言語や内言として表現・形成され、言語がどのようにして受容され、内言がどのようにして反省されるのかを、その全過程を通じてつぶさに観察することなしには言語について解明することはできないのである。


 ソシュールは思想を「不定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者の発想では音声言語で表現されている概念も、langue の一面である非個性的な概念が思想と結合することによって具体化され個性的になったものと解釈されている。だが実際には言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前者のそれではなく後者のそれなのである。前者の概念は、後者の概念を表現するための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって、前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感性的であることは、この二種の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。連結されなければ規範が成立しない。これに対して、表現のとき対象の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴覚表象が連結され、現実の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのである。時枝が「我々の具体的な言循行において経験し得るものは、聴覚映像と概念との連合したものではなくして、聴覚映像が概念と聯号(れんごう)すること以外にはない。」とソシュールを批判したとき、その概念とは表現される概念をさしたのでありその限りにおいて正当であった。但し時枝は、ソシュールのいう langue とそこでの概念が、実は規範のそれであることを見ぬけなかったために、批判が裏がえしになってしまった。(p.27〜28)

ここで三浦のいっている二種類の概念のうち後者の「現実の世界から思想として形成された概念」を私は一括して個別概念と呼んでいる。それは後者が直接的・間接的・媒介的に現実からもたらされ意識内にその反映として形成された概念であり、その普遍的な概念の裏側に現実のものごとのもつ具体的・特殊的な認識(表象)をともなった概念――すなわち概念的に把握された現実の像――だからである。また、後者の個別概念と明確に区別するために前者の「言語規範の概念」を語概念と私は呼んでいる。

なお、川島正平さんは「<概念の二重化>説 2」という小論で、小川文昭さんとの相互応答を通して、後者を運用概念と呼び、前者を規範概念と呼んでおられる。そしてさらに運用概念を詳しく分析してそれには3種の別があるという考察をしておられる。私も大筋ではその考え方に同意したい。私は川島さんの規定した3種の運用概念がいずれも現実の事物から直接的・間接的・媒介的に形成されたものであり、元になった現実の事物とのつながりを保持しているという意味で個別概念という語を用いているのであり、運用概念という語に異を唱えている訳ではないし、語概念を規範概念と呼んでも一向に構わないと思う。さらにいうなら、個々の人間の意識においては規範概念(語概念)は運用概念(個別概念)から止揚されて形成される普遍概念(個別概念の一側面)が言語規範の概念として語韻と連合したものであると私は考えており、語韻と結びついていない普遍概念もまた概念の階層的・関係的構造の一構成単位として個々の人間の意識の中にいくらでも存在していると考えている。また、そうでなければ人間が言語規範や記号規範をつくりだす契機が存在しない。そして、個々の人間が日常生活の中で状況と条件に応じてその都度合理的につくり出している個別概念(概念的に把握されたものごとの表象)から抽象されるこの根源的な普遍概念がフランス語の mouton と英語の sheep との差異をもたらす原因であると私は考えている。

つまり「概念は「言語」に先立つ(2)」で書いたように「個物の持つ属性は多様であり、それゆえに人間が個物から取り出す概念もまた多様です。そしてまた人間のまわりにある個物は無数ですから、人間が把握し認識する概念も無数です。しかし、人間が取り出し特に注意をはらうのは自分の生活に必要なものに限られるでしょう。生活に不自由しない限りの概念さえ把握していれば通常の生活には事足りるわけです。言語は人間がその認識や意識の内容を他者に伝えるために作り出したものですから、言語化される概念は人間がそしてその人間が生きている社会が必要とするもので十分です。つまり、特に注意を払い他と区別しなければ不便であるような概念が、まず言語化されるわけです。それ以外の多くの概念は言語化されません。なんでもかでも言語化していたら覚えるのも使い分けるのも大変ですしすべての概念を言語化するなどということは不可能だから」であり、「関係概念や人間の衣食住に直接関係する事物の概念は他の事物の概念にくらべると社会や文化のあり方からの影響をより強く受けるもの」であると私は考えており、このことが言語規範(語規範)の成立に先だつ普遍概念の存在に私がこだわり続ける理由なのである。

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軌道修正

〔2007.03.17記〕

よきにつけ悪しきにつけ、一つのことに集中すると他のものが見えなくなってしまい、それ以外のものに対する注意力や関心が極端に低下してしまうというのが私の属性です。要するに一つのことに夢中になってしまうと他を省みることができないのですね。たとえば、ゲームモードに入ってしまうと、一ヵ月以上はそれにかかりっきりなります。つまり、日常生活の大半が観念的自己分裂によるその世界への移行状態になってしまうということでしょう。よくいえば、集中力があるわけですが、ものごとには二面性があるわけで、いいことばかりではありません。そのせいで、他の重要なものごとを忘れ去ってしまい、後で始末をつけるのに大変な苦労をするということもまれではないからです。

とはいえ他方では、気持を切り替えさえすれば他のものに集中できてしまうというこの性格はくよくよ悩むという煩わしさから私を容易に解放してくれるものでもあります。その意味では頭の切り替えの速いこの能天気な性分をとてもありがたいものだと私自身は思っています。

そんなわけで、ここ数ヶ月このブログはタイトルとはなんのつながりもないフォント関係の記事ばかりになっておりました。もうそろそろ関心を本来の「ことば・その周辺」に戻す頃合いではあります。ゲームとは違い、こちらの方はもっぱら自覚的・主体的に対象に取り組んでいかなければ書くこともままならないので軌道修正はそう簡単ではないと思いますが、リハビリでもするつもりで少しずつやっていきたいと思います。

コマンドプロンプトで使用するフォント

〔2007.03.12記〕〔2007.03.12追記〕〔2007.03.15追記

digitalbox(デジタルボックス)』(ハコさん)の「meiryoKeGothic のインストール・その後」という記事で、「"Associated DefaultFonts" の "AssocSystemFont" を "meiryoKeGothic.ttc" に、"FontPackage" を "MeiryoKe_Gothic" に変更してみたのですが、…」「FixedSys と Terminal がどうしてもジャギったまんまになってしまいます」というご指摘がありました。つまり、英数・記号(いわゆる ASCII文字)はビットマップのままで、日本語(全角文字)部分は ClearType の効いていないやせ細ったギザギザの状態で表示されてしまうということです。

私もこれは確認済みで、コマンドプロンプト(Console)や端末エミュレーション(Terminal)は VGA が前提で、フォントはサイズ固定(12pxまたは14px)のビットマップ(.fon)だから日本語部分にいくら ttf を指定しても無意味なんだろうとあきらめていました。しかし、Terminal の方はまったく疎いので私にはどうにも扱いようがないと思ったものの、コマンドプロンプトについてはときどきはお世話になっているのでちょっと調べてみたところ、WindowsXP では VGA ではなく SVGA で実行されているということでした。それなら ttf の ClearType が効いてもよさそうなものだと思って、コマンドプロンプトやファイラーの Shell から開く DOS窓のプロパティを開いてみたところ、どちらにも「フォント」タブがあって、私の場合そこでの指定が「ラスタ フォント」になっていたのですが、そこでは "MeiryoKe_Console" と "MS ゴシック" も選択できるようになっていました(サイズも選択できる)。下の左側がコマンドプロンプト、右が Shell から開いた DOS窓のプロパティです。

 

[Associated DefaultFonts] では "MeiryoKe_Console" 以外にも "MeiryoKe_Gothic" や他の ttfフォントをいくつか指定したはずなのになぜ "MeiryoKe_Console" だけが…、という疑問は残ります。なぜなら現在私は "MS Gothic" を指定しているからです。試しに他のフォントをいくつか指定してみたのですが選択肢はやはり "MeiryoKe_Console" と "MS ゴシック" だけです。

その謎解きはまたの機会にということで、 "MeiryoKe_Console" と "MS ゴシック" を選択した場合の違いを下に示します。なお、私は "MeiryoKe_Gothic" を "MS ゴシック" と偽っていますので、"MS ゴシック" を選択すると "MeiryoKe_Gothic" で表示されます。左が "MeiryoKe_Console"、右が "MS ゴシック"(実体は "MeiryoKe_Gothic")です。ディセンダ/アセンダの違いが行間隔の差となって表れているようです。また、 ASCII文字の部分の違いも分かります。

 

〔2007.03.12追記

大ボケをかましてしまったみたいです。「謎解き」はハコさんが「コマンドプロンプトで使用するフォントの追加」ですでになさっていたのですね。しかも私はその部分を読んで、書いてある通りにレジストリの追加をしておきながら、その内容をきちんと理解しないままに「コマンドプロンプト(Console)や端末エミュレーション(Terminal)は VGA が前提で、フォントはサイズ固定(12pxまたは14px)のビットマップ(.fon)だから日本語部分にいくら ttf を指定しても無意味なんだ」という思い込みに災いされて「コマンドプロンプトのプロパティから追加された MeiryoKe_Console を選択すればOK」の部分を読み落としていたことに気がつかなかったのです。

というわけで、コマンドプロンプトの「フォントタブ」で "MeiryoKe_Console" が選択可能になっていたのはハコさんの記事の追記部分に従って下のように [TrueTypeFont] エントリーに値を追加していたためでした。すっかり忘れておりました。


[HKEY_LOCAL_MACHINE\SOFTWARE\Microsoft\Windows NT
\CurrentVersion\Console\TrueTypeFont]

"932."="MeiryoKe_Console" ←この値を追加

とんだ醜態で、面目ありません。まあそのおかげで、WindowsXP ではコマンドプロンプトVGA ではなく SVGA で実行されているということが調べて分かったのだから、それでよしということにして自分を慰めることにします。

〔2007.03.15追記

"932.."="MeiryoKe_Gothic"」,「"932..."="TBゴシックR"」,… という風に値を追加することによってコマンドプロンプトで使うフォントを追加することができました(下図)。いずれも等幅フォントですが、たとえ等幅フォントであっても使えないものもあるようです。どんな条件が必要なのかは分かりません。

(参照した記事)

WindowsXP のシステム・フォントを変更する(5)――最終

〔2007.03.06記〕〔2007.03.11追記

WindowsXP のシステム・フォントを変更する(4)――番外」のコメントで takayukiさんが教えてくださった [FontSubstitutes] へのレジストリ追加によって、レジストリの追加・変更という方法で WindowsXP のシステムフォントを変更する私の試みは一段落したように思われます。しかし、「WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)」の本文および追記に記したレジストリの変更・追加に加えて Styler を併用することによって XP のかなりの部分が MeiryoKe できれいに表示されるようになったとはいえ、まだ MS Gothic("MS ゴシック", "MS Pゴシック", "MS UI Gothic")で表示されてしまう部分は依然として残っています。この部分まで MeiryoKe で表示させるには meiryoKeGothic.ttc をオリジナルの msgothic.ttc と置き換えてしまうしかありません(と、私は思います)。

この方法はかなり過激なので決してお勧めは致しませんが、私が実験的に試みた限りでは特に困った事態にはなりませんでした。meiryoKeGothic.ttc には msgothic.ttc と同じように「等幅・プロポーショナル・UI」の3種類のフォントが揃っていますし、ディセンダ、アセンダが微妙に異なる以外はフォントの幅もまったく同じなので、置き換えてしまうには最適なフォントだと思います。その意味では他のフォントに比べれば置き換えることによって起こるかもしれない危険性が最も少ないフォントだともいえるでしょう。まあ、システムフォントが非常によく似たものに置き換わるだけであって、なくなってしまうわけではないので手順さえ間違えなければ大丈夫でしょう。

以下では混乱を避けるため、オリジナルの msgothic.ttcmsgothic.ttc のように表記し、meiryoKeGothic.ttc から作り出した msgothic.ttcMSGothic.ttc と表記します。また、フォント名の全角・半角の区別をしやすいように メイリオ(sans-serif) ではなく MeiryoKe_Gothic(monospace) を用いて表示します。

"ttc" というのは "True Type コレクション" というファイルで、その中に複数の "ttf"(True Type Font) を含んでいます。"MS ゴシック" とか "MeiryoKe_Gothic" とかいったフォント名はそれぞれの "ttf" に内部情報として書き込まれていますので、meiryoKeGothic.ttc をオリジナルの msgothic.ttc と置き換えるためには、meiryoKeGothic.ttc から三つの ttf を取り出し、さらにそれらの内部情報であるフォント名を msgothic.ttc に含まれる三つの ttf と同じものにそれぞれ書き換える必要があります。そしてその上で、フォント名を書き換えた三つの ttf を組み込んだ新しい ttc を作り、そのファイル名を MSGothic.ttc にして、オリジナルの msgothic.ttc の代わりに Fontsフォルダに入れることになります。

さて、meiryoKeGothic.ttc から MSGothic.ttc を作る手順は「メイリオのディセンダを変える」に書いた手順とほとんど同じです。違うのは変更する内部情報がアセンダ、ディセンダの数値ではなくフォント名であることと、書き換えるべき ttf が三つあるということです。したがって、メモ帳を使ってファイル名を変更する作業は書き換える箇所が多く、それを三つの ttf についてやらなければならないので作業量は少し多くなります。しかも、間違わずに慎重にやる必要があります。しかし、meiryoKeGothic.ttc から三つの ttc を取り出し、そこから内部情報を読み出した xmlファイルを生成する部分と、ファイル名の部分をメモ帳で書き換えた三つの xmlファイル を元に新しい三つの ttf を作り、これら三つの ttf をまとめて新しい MSGothic.ttc を生成する部分は batファイルで行なうので手数はあまりかかりません。

以下にその手順を書きますが、その前に書き換えるべきフォント名関係のデータが、オリジナルの msgothic.ttc ではどうなっているかを "MS Gothic" について示します。


    <!-- Family -->
<T n="1,0,0000,1">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0409,1">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0411,1">MS ゴシック</T>

<!-- Subfamily -->
<T n="1,0,0000,2">Regular</T>
<T n="3,1,0409,2">Regular</T>
<T n="3,1,0411,2">標準</T>

<!-- UniqueIdentifier -->
<T n="1,0,0000,3">Microsoft:MS Gothic:1997</T>
<T n="3,1,0409,3">Microsoft:MS Gothic:1997</T>
<T n="3,1,0411,3">Microsoft:MS ゴシック:1997</T>

<!-- FullName -->
<T n="1,0,0000,4">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0409,4">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0411,4">MS ゴシック</T>

"MS PGothic" では上記の "MS Gothic", "MS ゴシック" の部分が "MS PGothic", "MS Pゴシック" になっていますが、"MS UI Gothic" は日本語フォント名をもたずすべて "MS UI Gothic" になっています。というわけで、これらの部分に該当する meiryoKeGothic.ttc の内部情報を書き換えることが、以下の作業で最も肝要な部分となります。

(1) 作業用のフォルダを作成して、そこに BREAKTTC.EXE, ttfname3.exe, MAKETTC.EXE、さらに meiryoKeGothic.ttc をコピーしておきます。以後の作業はエクスプローラか他のファイラー上で行ないます。BREAKTTC.EXE, MAKETTC.EXE, ttfname3.exe の入手方法は「メイリオのディセンダを変える」を参照して下さい

(2) メモ帳を開きつぎの内容をコピー&ペーストし、"break.bat" という名前で作業用のフォルダに保存します。


rem --- ttc から ttfファイルを取り出し、ファイル名を短縮する

ren meiryoKeGothic.ttc mKGot.ttc

breakttc mKGot.ttc

ren FONT00.TTF mKG.ttf

ren FONT01.TTF mKPG.ttf

ren FONT02.TTF mKUG.ttf

ren mKGot.ttc meiryoKeGothic.ttc



rem --- ttf からフォント情報を読み出して xmlファイルに書き出す

ttfname3 mKG.ttf

ttfname3 mKPG.ttf

ttfname3 mKUG.ttf

(3) 作業用のフォルダで break.bat をダブルクリックして実行すると、作業用のフォルダ内に mKG.ttf, mKPG.ttf, mKUG.ttf ("MeiryoKe_Gothic", "MeiryoKe_PGothic", "MeiryoKe_UIGothic" の ttf) が取り出され、それらからフォント情報を読み出した mKG.xml, mKPG.xml, mKUG.xml が作成されます。

(4) mKG.xml をメモ帳にドラッグ&ドロップして開き、フォント名に関するブロックの該当部分をつぎのように書き換えてから「上書き保存」して下さい。文字列の置換をうまく利用すると楽です。なお、"MS ゴシック" の "MS", "ゴシック" は全角でスペースは半角です。間違わないように。mKPG.xml についても同様の作業をします。"MS Gothic", "MS ゴシック" の部分がそれぞれ "MS PGothic", "MS Pゴシック" になるだけです("MS", "Pゴシック" は全角でスペースは半角)。mKUG.xml についても同様ですが、日本語フォント名はありませんのですべて "MS UI Gothic"に書き換えます。"<T n="3,1,0411,2">標準</T>" の部分も忘れずに。


    <!-- Family -->
<T n="0,3,0000,1">MS Gothic</T>
<T n="1,0,0000,1">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0409,1">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0411,1">MS ゴシック</T>

<!-- Subfamily -->
<T n="3,1,0411,2">標準</T>

<!-- UniqueIdentifier -->
<T n="0,3,0000,3">Microsoft: MS Gothic: 2005</T>
<T n="1,0,0000,3">Microsoft: MS Gothic: 2005</T>
<T n="3,1,0409,3">Microsoft: MS Gothic: 2005</T>
<T n="3,1,0411,3">Microsoft: MS ゴシック: 2005</T>

<!-- FullName -->
<T n="0,3,0000,4">MS Gothic</T>
<T n="1,0,0000,4">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0409,4">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0411,4">MS ゴシック</T>

<!-- PostscriptName -->
<T n="0,3,0000,6">MS Gothic</T>
<T n="1,0,0000,6">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0409,6">MS Gothic</T>
<T n="3,1,0411,6">MS ゴシック</T>

(5) メモ帳を開きつぎの内容をコピー&ペーストし、"make.bat" という名前で作業用のフォルダに保存します。


rem --- 書き換えた情報を元にして新しい ttfファイルを作る

ttfname3 mKG.ttf mKG.xml

ttfname3 mKPG.ttf mKPG.xml

ttfname3 mKUG.ttf mKUG.xml



rem --- 作成された新しい ttfファイルを組み込んだ MSGot_MK.ttc を作る。

makettc MSGot_MK.ttc mKG_mod.ttf mKPG_mod.ttf mKUG_mod.ttf

(6) 作業用のフォルダで "make.bat" をダブルクリックして実行すると、作業用のフォルダ内に mKG_mod.ttf, mKPG_mod.ttf, mKUG_mod.ttf が作成され、さらにこれらを組み込んだ MSGOT_MK.TTC が作成されます(名前が大文字になってしまいますが気にせずに…)。この MSGOT_MK.TTC が内部ファイル名を msgothic.ttc と同じものに変更した meiryoKeGothic.ttc です。ファイル名をダブルクリックしてフォント名が「MS ゴシック & MS Pゴシック & MS UI Gothic」にちゃんと書き換わっているかどうか確認してみて下さい。作業の過程でつくられた ttf, ttc, xml, bat の各ファイルはどこかに保存用フォルダを作って移動させ、しばらくは保存しておいた方がよいでしょう。MSGOT_MK.TTC もバックアップをとっておくことをお勧めします。

フォント名がきちんと書き換わっていることが確認できたら、ファイル名を "MSGothic.ttc" に変更して MSGothic.ttc のでき上がりです。あとは msgothic.ttc の代わりに MSGothic.ttc を Fontsフォルダに入れて(=Fontsフォルダにある msgothic.ttc をデスクトップあたりに移動し、代わりに MSGothic.ttc を Fontsフォルダに移動またはコピーする)再起動するだけですが、精神的・肉体的な健康・保険のために、その前に復元ポイントを作成しておきましょう。移動させておいた msgothic.ttc は再起動後にどこか適切な場所に保存して下さい(他に msgothic.ttc のバックアップがあるならゴミ箱に捨ててしまってもかまいません)。

さて、このようにして meiryoKe_Gothic.ttcMSGothic.ttc にしてしまうと、「WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)」で変更・追加したレジストリはほとんど不要になります。必要なのは takayukiさんが教えてくださった [FontSubstitutes] へのレジストリ追加だけです。それ以外はすべて元に戻してしまって構いません。もっとも、元に戻さなくてもなんら支障はありませんからそのままにしておいても大丈夫ですが…。私はすべて元に戻しました。それに「WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)」でご紹介した snailさん作成の "meiryo.reg" と私の作った "unregmeiryo.reg" を利用すればレジストリの変更・追加とその取消がいつでも簡単にできます。

〔2007.03.11追記

MSGothic.ttc というファイル名は紛らわしいので実際は他の名前、たとえば MSGothic_MKe.ttc でも構わないし、あるいは、mKG_mod.ttf, mKPG_mod.ttf, mKUG_mod.ttf を一つの ttc にまとめずにそのまま Fontsフォルダに入れてしまっても構わないはずなので、私は現在前者のように MSGothic_MKe.ttc という名前に変えて Fontsフォルダに入れています(MSGothic.ttc はたまにしか使わないフォント類を収めている d:\Windows\Fonts というフォルダに MSGothic_org.ttc という名前で保管してあります)。

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