鏡像における左右反転という現象について


〔2006.08.23記・08.24追記〕

『自由のための「不定期便」』というブログで「鏡の中の世界」という記事を読んだ。このブログでもたっちゃん(敬称略)三浦つとむの観念的自己分裂について書いておられる。しかし、このエントリーは観念的自己分裂とは無関係。鏡に映った像では、上下は反転していないのに左右が反転しているのは不思議だということに関して、かなり以前『数学セミナー』誌上に載った朝永振一郎のエッセイを引用している。

それを読んで少し考えてみた。このことについては前にも考えたことがある。そのときの結論は別に左右が反転しているわけではなく、もともと鏡像は前後が反転しているのであって、それを反映して左右が反転するのだ、というものであった。つまりエッセイにもあったが、前を向いたとき人間の身体は頭と足とを結ぶ軸に対して左と右とがほぼ対象なので特にそれが際だって感じられるのだという結論だったと思う。

しかし、よく考えてみると人間の身体の対称性は特に関係ないような気もする。実は左右という方向の相対性が問題なのではないかと思われてきたのである。というのは、地上を直立して歩く人間の認識にとって、上下方向は絶対的であり、北極・南極方向を基準とする方角も絶対的であるが、前後方向や左右方向はあくまでも相対的なものである。特に左右という方向は人間にとって前後を定めないことには定まらないという性質を持ったものであるから、前後が反転する鏡像においては必然的に左右も反転せざるを得ないのだ。

たとえば、鏡を南に向け、自分はそれに向かって北面するようにして身体を映してみる。このとき左右の手を水平に伸ばすと、右手は東の方向を指し左手は西の方向を指す。そこで右手を「東の手」、左手を「西の手」と呼ぶことにすれば鏡像においても「東の手」は東を向いているし、「西の手」は西を向いている。したがって鏡像において東西は反転しないのである(当然であるが)。

だから、人間が「右手・左手」という代りに方角を用いてそれぞれの手が位置する方向に従って「東の手・西の手・北の手・南の手…」のように絶対的な方向を用いて呼ぶか、もしくは「心臓と反対方向に位置する手・心臓と同じ方向に位置する手」という風な絶対的な定義を用いて呼ぶなら、鏡像においてもそれらの手は反転しないはずである。つまり鏡像においても「心臓と反対方向に位置する手」は必ず「心臓と反対方向に位置する手」として映るのである。

ここまで書いて思い出したが、「言葉とイメージ」(2006.07.22)という記事で瀬戸智子さんが「左」と「右」に当たる語彙が存在しない言語(ツェルタル語やグウグ・イミディール語)について触れておられた。この人たちは右・左という相対的な空間認知ではなく、東・西のような絶対的な空間認知をしているらしい。そうだとすればこのような絶対的な空間認知をしている人々には当然のことながら鏡像の左右反転という相対的な認知概念は存在しないであろう。

この稿を書き始める前に、心臓を下にして横泳ぎしながら一生を過ごす半魚人がいたとしたらかれらの見る鏡像はどのようなものであろうかと考えてみた。彼らにとって手は上にあるものと下にあるものであり、上の手は常に上に位置し、下の手は常に下に位置している。つまり、かれらはそれらを「上の手」「下の手」と呼ぶであろう。彼らが対面する方向を前と呼び、進行方向つまり頭の方向をたとえば「頭の方向」と呼ぶとすると、彼らにとって上・下および頭・足の方向は前後方向とは独立した方向であるから、彼らにとって鏡像は前後方向が逆に映るとしても、それ以外の上・下および頭・足の方向はやはり反転しないであろう…、とまあこんなことを考えていたわけである。

結論:鏡像とは裏返しの像であって、左右の反転というのは本質的なものではない。

〔2006.08.24追記〕

結局のところ何を基準としての右・左かということであろう。鏡を見ている本人を基準とすれば、右手の鏡像は見ている本人から見ればやはり右側に映るのである。鏡に向かい合うと自然に鏡像を媒介にして観念的自己分裂が起こり、知らず知らずのうちに鏡像が現実の自分であるかのように思いこんでしまう。その鏡像の立場から見れば確かに元の右手が左手になってしまっているように思える。しかし、あくまでも鏡像は鏡像であり、自分はこちら側にいて鏡像を見ているのだということを忘れず、自分を基準にして観察する限り、上は上に、右は右に映るという客観的な判断ができるであろう。