自己意識の契機


〔2006.08.01記・08.17修正〕

人間の意識は外部の世界を映し出す鏡である。認識とはその鏡に映し出された像(客体)である。この意味で認識は対象認識ともよばれる。しかし意識という鏡は単に受動的に対象を映し出すだけのものではない。意識には認識を客体として把握している主体が存在しており、その主体は現実の主体の分身である。したがってあたかもカメラマンが対象に向かってカメラを向けるために自らの身体を動かし、被写体を自らの主体性によって選び取り最良のシャッターチャンスにおいて対象を写し取るのと同じように、現実の主体・現実の人間の意識は対象とする世界を選び取り、世界に働きかけ世界を認識しようとする能動的な存在でもある。

このようにさまざまなものを対象認識としてとらえている意識は、鏡に映った像を見ている主体であるが、この主体すなわち意識主体は意識に映し出される像を媒介にして自己を認識する。つまりこれらの像を見ている自分を意識することになる。これが自己意識の第一の契機である。

また意識は外部の世界を映し出すだけではなく自分の身体をも映し出す。目や鼻や耳や皮膚は自分の身体を知覚しているし、深部感覚は身体内部の状態を知覚している。水を飲んだり物を食べたりするときには味を感じたり、のどごし感を覚える。こうした知覚を介して意識は自己の身体の存在を認識している。また運動覚や平衡覚、視覚・聴覚等を通じて意識は自己の身体の位置や動きを認識している。こうして現実の意識主体は自己の身体を内と外の両側から知覚し認識している。身体的としての自己を認識しているこの意識は身体的自己意識とよばれている。身体的自己意識は他ならぬこの身体の中に自己が存在しているという意識である。これが自己意識の第二の契機となる。

表現とよばれるものは人間の意識を意識の外部につまり表に現したものである。表現は、人間が自己の意識を物質的・物理的な形態で表出したものであり、それ自身一つの鏡である。つまり、表現は表現した人間の意識を映し出す鏡である。あらゆる表現の中で言葉は人間の意識をもっとも忠実に映し出すことができるという意味で他の表現とは一線を画するものであるが、他の表現は言葉には不可能なやり方で人間の意識のあり方を映し出してもいるのである。

表現は人間の意識を映し出すのだから、人間は表現を介して他者の意識を知り、自己の意識を知る。つまり外化された他者の意識・自己の意識である他者の表現・自己の表現を介して人間は自己の意識のうちにこれらを対象意識として取り込むことができる。こうして人間(人間の意識)は、意識のうちに映し出された(客体化された)他者の意識・自己の意識を媒介にしてあらためて人間としての、類としての自己を認識することになる。これが自己意識の第三の契機になる。

〔注記〕

「第一の契機」「第二の契機」は説明の都合上つけた名称である。順番に意味はない。ただし「第三の契機」が「第一・第二の契機」に先立つことはない。そして「第三の契機」こそが自己意識形成における最大の契機である。

〔2006.08.17注記〕

対象認識は対象意識を形成する一つの意識実体であり、対象意識と対象認識とは異なるものであるので、文中で対象認識の意味で使われていた「対象意識」の語を「対象認識」に改めた。