観念的自己分裂の位置づけ


〔2006.02.12記〕

 認識論的にみた観念的自己分裂 「主観・客観と観念的自己分裂」で書いたように、観念的自己分裂という意識活動そのものは人間ならだれしも日常的にしかも絶えず頻繁に行なっているありふれた活動すなわち〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれる意識活動である。その構造を認識論的観点から簡潔に表現すると、意識内外部の対象に触発・媒介されて現実の自己意識から分離・移行した観念的な自己意識が現実の世界の束縛から解き放たれ、現実の世界の外側に位置づけられた観念的な世界の中でさまざまな客体と対面・関係しながら活動し、そこで獲得した創造的なものをもって現実の自己意識に復帰する、という形態で現象している意識活動である。この〈→移行→復帰〉の過程は意識の内部で絶えず継起的に行なわれている。

 存在論的にみた観念的自己分裂 しかし存在論的にみれば、それは意識内における活動であって、観念的な世界は現実の自己意識が意識の内部につくりあげたものであり、観念的な自己意識は現実の自己意識が自覚的にせよ無自覚的にせよみずから観念的な世界の中に分離させたものである。このとき現実の自己意識は消滅しているわけではない。現実の自己意識は、観念的な自己意識の担い手としてそのままその場にとどまっており、現実の自己意識と観念的な自己意識との統一体として観念的な自己意識とのあいだに交通関係を維持している。そして観念的な自己意識がはたらきかけているさまざまな客体は観念的な自己意識がつくりだしているかのように見えるけれども、それらの客体は実際には現実の自己意識と観念的な自己意識との統一体である現実の自己意識が現実の世界あるいは観念の世界にある材料をもとにして意識内につくりだしているものである。つまり観念的自己分裂を統御している主体は現実の自己意識なのである(この統御は自覚的・意識的・目的的に行なわれることもあれば無自覚的・無意識的・無目的的に行なわれることもある)。しかも現実の自己意識を担っている現実の自己は肉体的な自己と精神的な自己との統一体であって、現実の自己意識と連携しながら現実の世界の中で現実の客体と対面し関係している現実的な存在である。こうして現実の人間は肉体的な自己と精神的な自己との統一体として、一方で肉体を介して外の世界とのあいだに物質的・精神的な相互関係を築きながら、他方で外界から得たさまざまな知識を加工して多様かつ創造的な精神活動を続けているのである。

観念的自己分裂という意識活動を存在という観点から大づかみすると以上のようになる。そして観念的に自己分裂した自己意識は観念的な世界で得た新しい認識を携えて遅かれ早かれもとの現実の自己意識に復帰するが、休むいとまもなく再び分裂して意識活動を続けるのであって、このように絶えず分裂したり復帰したりしているのが自己意識のあり方なのである。

 ヘーゲルにおける観念的自己分裂 マルクスヘーゲル弁証法が純粋思惟に始まり純粋思惟に終わる「思惟の弁証法」であることを批判する文章の中で「(ヘーゲルの)主体はつねに意識ないし自己意識である。あるいはむしろ、対象はただ抽象的意識としてのみ現われ、人間はただ自己意識としてのみ現われる」(『経済学・哲学草稿』岩波文庫)といっているが、ここでマルクスのいっている「意識」とは現実の自己の意識のことであり、「自己意識」とは現実の自己の意識から観念的に移行した自己意識のことである。また、「対象はただ抽象的意識としてのみ現われ」というのは「ヘーゲルにとっての対象は観念的な自己意識の客体つまり抽象的な対象意識としてのみ現われ」るということを意味している。ヘーゲル弁証法においては「観念的な自己意識」(精神)を否定するのがそこから分裂した「現実の自己意識」すなわち現実的感性であり、現実的感性の否定(つまり否定の否定)が真実の肯定つまり止揚された哲学的精神(認識を新たにして復帰した「観念的な自己意識」=理性的な自己意識)である。この止揚は抽象的な対象の自己意識への還帰(無化)と対象の抽象的な外化(対象=自己の実現)として現れる。この哲学的精神は思惟の運動(観念的自己分裂)に媒介されて発展を続けついには絶対知・絶対精神に到達する(自己の完全性に目覚めそれを抽象的に確証する)のである。

 ヘーゲルの逆立ち ヘーゲルは観念的自己分裂のことを認識論的に十分に認識していたが、ヘーゲルにおいては「観念的自己意識」がすべての出発点であってそこから「現実の自己意識」が分裂してくるという形をとるのであるから、ヘーゲル弁証法においては観念的自己分裂が転倒した形で現われている。しかもマルクスの指摘するようにヘーゲルの疎外は「自己意識と意識との」「思想そのものの内部での対立」(『経済学・哲学草稿』)によって止揚される限りでの純粋思惟における疎外、抽象態としての自己疎外である。

 このバウアーの大胆さの秘密は、ヘーゲルの『現象学』である。ヘーゲルはここで人間のかわりに自己意識をおいているのであるから、いろいろさまざまの人間的現実性は自己意識の一つの規定された形式として、その規定性としてあらわれるにすぎない。だが自己意識のたんなる規定性は「純粋のカテゴリー」であり、したがって私がまた「純粋」な思考のうちで揚棄し、純粋な思考をつうじて克服することのできる、たんなる「思想」である。ヘーゲルの『現象学』では、人間的自己意識のいろいろの疎外された形態の物質的感覚的対象的な基礎は放置され、破壊的な全工作は、もっとも保守的な哲学をその成果としてもつのである。というのは、その工作が対象的世界を、感覚的・現実的な世界を、一つの「思想物」に、自己意識のたんなる規定性にかえ、そして精気のようになった対立者を、いまや「純粋な思想の精気」に解消することができるやいなや、これを克服したつもりでいるのだから。だから『現象学』は首尾一貫して、すべての人間的現実性のかわりに、『絶対知』をおくことで終るのである。――というのは、それが自己意識の唯一の定在様式だからであり、自己意識が人間の唯一の定在様式とみなされるからである。――絶対知というのは、まさに自己意識がただ自分自身だけを知り、もはやなんら対象的世界にさまたげられることがないからである。ヘーゲルは、自己意識を、人間の、現実的な、したがってまた現実的・対象的世界にすみ、かつこれに制約されるところの人間の、自己意識としないで、人間をば自己意識の人間とする。彼は世界を頭で〔逆〕立たせ、したがって、また頭のなかですべての制限を解消させることができるのである。ただしそれによって、これらの制限が、悪しき感性にとり現実の人間にとっては、いぜんとして存続するのはもちろんのことである。そのうえ彼にとっては、普遍的自己意識の制限性を示すすべてのもの、すべての感性、現実性、人間の個性ならびにその世界の個性が、必然に制限とみなされるのである。全『現象学』は、自己意識唯一のそしてすべての実在性であることを証明しようと欲している。マルクス『聖家族』大月書店/マルクスエンゲルス全集第2巻203ページ)

 歴史の契機としての観念的自己分裂 しかしながらマルクスヘーゲル弁証法において逆立ちしている観念的自己分裂が絶対精神の発展運動の契機となっていることを見ぬき、ヘーゲルの観念的自己分裂のなかに人間の意識の発生の契機をみた。そしてヘーゲルの自己疎外が現実の世界における人間の自己疎外の反映であることを鋭く見ぬいたマルクスヘーゲル弁証法唯物論的・存在論的に転倒した上で、その弁証法唯物論をもって人間の歴史・経済学の研究に向かったのである。