ソシュール「言語学」とは何か(6)

〔2006.11.24記〕

ソシュール講義録注解』の 76〜100ページは印欧語の知識がない私には理解するのがむずかしい。その上チェスのように単位(駒)がはじめからはっきりしているものを、その都度単位が発生するとソシュール自身がいっている「言語」の比喩として用いること自体が不適切である。それにソシュールの印欧語の蘊蓄は私にはどうでもいい。というわけで、そのあたりはざっと読み流してその先に進む。

ところで、『ソシュール講義録注解』という形でソシュールの講義を読み進めていくうちになんとなくソシュールの思考の輪郭がつかめてきた。というのは、講義の中でソシュールが語っているのはソシュールの意識内部の現象だということであり、そしてそれこそが「共時言語学」なのだということである。したがって、ソシュール「言」を取り上げるときにも、いったんそれを内言として再構成し、その内言化された「言」を分析しているのである。したがって、ソシュールが分析しているように見える「言」は現実の「言」ではない。それは「書」についてもいえることである。「書」のように見えているのは内言化された「音」である。前田が『ソシュールの「語る主体」はラングの主体であって、パロールの主体ではない』(p.74)と指摘しているのはこのことをも含んでいると理解するべきであろう。ソシュールはあくまでも「言語」(内言)を語っている。

12月14日の講義(p.101〜107) では「現象」と「関係」について語られる。例によって印欧語の蘊蓄はどうでもよい。また、「通時言語学」に関することもどうでもいい。重要なのはソシュールが単位を現象から説明していることであり、それが関係として現われるといっていることである。つまり、関係に先立って現象が単位を生成する、とソシュールが考えていることである。そして、単位は表意的である、ともソシュールはいっている。表意的である、とは質・価値と結びついているということであるから、「思考−音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実」(p.59)をもたらすのが質・価値であり、質・価値によって単位が生み出され、内言が成立することをソシュールは「共時的現象」といっているのだろう。「言語」という体系における諸辞項・諸単位相互の「関係」はその後に現象の解釈として成立するのである。

整理してみよう。「言語langue」「潜勢的な(言語)能力langage」によって生まれるとソシュールがいうとき、その「言語」は、内言をも言語規範をも含むものだろう。そして「潜勢的な(言語)能力langage」は内言を生み出す能力としては、概念化能力と言語規範意識とをともに含むものと考えなければならない(言語規範意識を形成するには「言」「書」を通じた実践が必要なことはここでは問わないことにしよう)。

当初ソシュールが規定した「言語」は社会的な制度であった。それは私の規定でいえば言語規範である。ソシュールはそれを「辞書や文法書のようなもの」(当然それは個々の人間の意識内に存在しているのだが)といっていた。しかし、その後ソシュール「言語」の領域を内言を含めたより広い意識領域にまで拡張している。そして、「辞書のようなもの」の中で体系を形づくっている諸辞項はそれぞれがシニフィアンシニフィエとの連合という形態をとっている。つまり、諸事項間における諸関係の束によって、それぞれの辞項(「語」あるいは「テルム」)の「音・シニフィアン」と「意義・シニフィエ」との連合が規定され、「言語」が体系化されるわけである(規範としての体系化はここで行われる一つの解釈であることをソシュールは自覚していたように思われる)。

ソシュールはこうした「意義・概念」や「音」が言語単位を生むのだとは考えていない。そうではなく単位から抽象されたものが「意義・概念・シニフィエ」や「音・シニフィアン」だといっている。このようなソシュールの考えかたは私には首肯できるものである。というのは、ソシュールのいう言語単位とは私のいう個別概念⇔語音像であると私には思われるからである。そして、言語単位を生み出す質・価値が個別概念であるということは先日来私が指摘してきたことであるし、個別概念が「言語」に先立って意識内に存在しているというのが三浦つとむ時枝誠記の主張であり、私の実感だからである。

このようなソシュール「言語」観からは

『寝ながら学べる構造主義内田樹文藝春秋


 ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。

「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭のたしかなものはない。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」(『一般言語学講義』)

 言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前が付くのではなく、名前が付くことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。

というような世界理解は出てこないだろう〔この本は持っていない。ネット上で拾ったものである。しかし複数のページに同じ文言が載っているので間違いはないであろう〕。このような見解は、『一般言語学講義』の解釈から出てくるありがちな一つのソシュール理解かもしれないが、講義録をすなおに読む限りソシュールはそうはいっていない。講義録においてソシュールは世界をどう解釈するかに関しては何もいっていない。第一ソシュール「言語」(内言)について語っているのであって、世界を語っているのではない。上記『一般言語学講義』の当該部分を含む前後の箇所を吟味すべきであろう(すでに何度も引用した部分である)。

『一般言語学講義』小林英夫訳・岩波書店、p.157〜158


 言語が純粋価値の体系でしかありえないことを会得するには,その働きにおいて活躍する二要素:観念と音とを考察するだけでよい.

 心理的にいうと,われわれの思想は,語によるその表現を無視するときは,無定形の不分明なかたまりにすぎない.記号の助けがなくては,われわれは二つの観念を明瞭に,いつもおなじに区別できそうもないことは,哲学者も言語学者もつねに一致して認めてきた.思想は,それだけ取ってみると,星雲のようなものであって,そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない.予定観念などというものはなく,言語が現われないうちは,なに一つ分明なものはない.

この浮動的な王国と向かい合って,音のほうこそはそれだけであらかじめ限りとられた実在体を呈しはしまいか? おなじことである.音的実在体とても,より堅固なものでもない;それは思想がぜひともその形をとらねばならない鋳型ではなくて,一つの造形資料であり,これまた分明な部分に分かたれて,思想の必要とする能記を供するのである.〈ソ図〉それゆえ総体としての言語的事実すなわち言語は,これを同時に茫漠たる観念の無限平面(A)と,音の・それにおとらず不定のそれ(B)との上に引かれた,一連の隣接下位区分として表わすことができる;その模様はこの図をもってよく彷彿させることができよう:

 思想と向かい合っての言語独特の役割は,観念を表現するために資料的な音声手段をつくりだすことではなくて,思想と音との仲を取り持つことである,ただしそれらの合一は必然的に単位の相互限定に落ちつくことになる.ほんらいこんとんたる思想も,分解するや,明確にならざるをえない.それゆえ思想の資料化があるわけでもなく,音の精神化があるわけでもない;いささか神秘めくが,「思想・音」は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである.なんなら空気が水面に接触するさまを想い浮かべられたい:気圧がかわると,水の表面は分解して一連の区分,すなわち波となる;この波動こそ,思想と音的資料との合一の・そしていわばつがいの観念をいだかせるのである.

 言語はこれを分節の領域であると称することもできなくはない.ただしこの語を p.22 において定義した意味(言語活動については articulation「分節」とは意義の連鎖を意義単位へと細分すること。人間生具のものは口頭言語ではなくて、言語を、つまり分明な観念に対応する分明な記号の体系を組みたてる能力である=引用者注)にとって:言語辞項はおのおのの小肢体であり,articulus「肢体・細分」であって,そこで観念が音に定着し,音が観念の記号となる.

 
言語はまた,一葉の紙片に比べることができる:思想は表であり,音は裏である;裏を分断せずに同時に表を分断することはできない;おなじく言語においても,音を思想から切り離すことも,思想を音から切り離すことも,できない;できたとしたら,それは抽象作用によるしかなく,その結果は純粋心理学か純粋音声学家のしごととなろう.

ソシュール講義録注解』で上記引用部にあたる部分(最初の部分は見当たらない)はつぎのようである(これもすでに引用した)。


…思考に対することば特有の役割は、音的、物質的手段たることにあるのではない。それは、思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような、そういう性質の中間地帯を創りだすことにある。本来混沌とした思考は、分解され、ことばによって諸単位に配分されることで、いやでも明確になる。けれども、ことばは一種の鋳型であるなどという陳腐な誤りに陥ってはならない。それは、ことばを何か固定した堅固なものとみなすことだが、音的素材にしたってそれじたいでは思考と同じくらい混沌としている。鋳型どころではない。音を便利に使ったそのような思考の物質化などはありえない。そこにあるのは、思考−音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない。(ふたつの無定形なかたまり、水と空気の比喩。大気の圧力が変化すれば、水面は一連の諸単位に分解される。それが波=実質を成さない仲介の連鎖だ。この律動は、思考とそれじたいでは無定形なあの音連鎖との和合、何なら交配を表わすといってもいい。それらの結合は、一個の形態を生みだす)。言語学の領域で、かなり広い意味で共通領域と呼べるところは、分節あるいは「分肢」の領域である。それは、思考がそのなかで音をとおして意識を得るにいたるような肢体の諸部分をいう。こういった分節、こういった諸単位のそとでは、人は純粋心理学(思考)か音声学(音)をやるしかない。(p.59)

とはいえ、ソシュールは言語単位(私には個別概念⇔語音像であるように思われる)をも「シニフィエシニフィアン」と表現したりするので、辞項としての「シニフィエシニフィアン」(私のいう語概念⇔語韻)との混同を招きかねない。そればかりでなく、世間では個別概念語音までもが「シニフィエシニフィアン」であると誤解されているのである。ソシュールを誤解するのはたやすいが、理解するのはむずかしい(これは自戒である)。

 ソシュール「言語学」とは何か(1)
 ソシュール「言語学」とは何か(7)
 個別概念が介在する表現⇒受容過程
 「内語」「内言・思考言語」の再規定