ソシュールの「言語」――「言語単位」と「価値」

〔2006.12.17記〕〔12.22 内容を修正/追記〕

「言語 langue」から「言 parole」も「書 écriture」も切り離したソシュールの「言語」観察においては、言葉の厳密な意味における表現とその受容という視点はありえない。したがってソシュールは言語の表現過程も受容過程も一切考慮しないで済むわけである。ソシュールの思考はあくまでも表現を前提としない内言の範囲にとどまる。

ソシュールは思考を「諸観念(イデ)」の「集塊」であるという。そして「言語(ラング)から拘束されない」この「集塊」は「純粋に概念的な(コンセプチュエルな)集塊」であり、「予め何も区別できない不完全なある種の星雲を思わせ」るといっている(引用は『一般言語学第三回講義』相原・秋津訳 p.273〜274 から)ソシュールの解釈では、この「思考」=「混沌とした観念(イデ)の王国」は、一次元的に連なった一連の「単位」つまり「連辞 syntagme」へと分節される*。そこに見出される「単位」は「連合関係 rapport associatif」によって規定されている「記号」(音声映像⇔概念(意義)の連合)であるが、この「単位」は同じようにして分節された他の「記号」との「連辞関係 rapport syntagmatique」すなわち共存する「単位」相互の意味作用によってある「価値」(意味)を担った「言語単位」(音声映像⇔価値の連合)となるのだ、とソシュールはいう。


* ソシュールの図では分節は一挙に行われているように見える(図1, 図2)。第二回講義では「大気の圧力が変化すれば、水面は一連の諸単位に分解される。それが波=実質を成さない仲介の連鎖だ。(『ソシュール講義録注解』前田訳 p.59)という表現になっている。しかし、私自身の内言の成立過程を観察する限りでは分節は逐次的に行われている。これは話し言葉が表現される過程とよく似ている。内言が多少なりとも存在しているという意味ではむしろ、書き言葉が表現されていく過程の方がこれに近いかもしれない。いずれにせよ一挙に分節することなどは不可能である。したがって波の比喩「連鎖」を厳密に解釈して、ソシュール自身も分節は逐次的に行われると考えていたと解釈するのが自然だろう。

さて、私は上の注*で、分節は逐次的に行われると書いた。実際、内言の成立過程を観察してみればこのことは明らかである。たとえば、頭の中で「明日は11時5分の特急に乗れば、2時の会合には十分間に合うだろう」という内容のことを考えたとしよう。実際はこのような整った形にはなっていないし、「明日」とか「乗る」とか「会合」とか「十分」「だろう」などといった内語は作り出されないのが普通である。それでも私はそういう内容の思考をすることができる。つまり、内言化するのは「11時5分の特急」「なら」「3時に」「間に合う」といった程度の内語だけであっても十分論理的な思考はできるのである。このとき、「11時5分の特急」「なら」「3時に」「間に合う」は一挙にではなく一つづつ逐次的に内語化されていく。そして「11時5分の特急」を内言化するときにはすでに「11時5分の特急」を個別の意味(「価値」)を持ったものとして私は認識している。「11時5分の特急」は単に運行形態だけが分かっているある特急、つまり「毎日11時5分に出発している特急」という普遍的な意義だけを担った「11時5分の特急」としてではなく、「明日の午前11時5分にO駅を発車する特急A」という(ある特定の表象をともなった)特定のある個別具体的な特急を個別概念としてとらえて私はそれを「11時5分の特急」と内語化したのである。「なら」も同様であって「乗るなら」という個別の動作概念および関係概念(条件)を「なら」と内語化したのである。「3時に」も「間に合う」も同様に個別の時刻概念や個別の動作・関係概念を内語化したものである。「3時に」には個別の時刻概念だけでなくある特定の場所で行われるある特定の人たちとのある特定の目的を持った会合という個別概念も含まれている(これらもある特定の表象をともなっている)。さらにいえば、私の頭の中には、内言化されていないその他の思考さえ同居している。つまり「12時30分までにはI駅に着くから、H書店で本を買ってBでパソコンやソフトを見て回った後でも(3時の会合に十分間に合う)」とか、「だから明日の朝はのんびり寝ていても大丈夫だ」といった思考も特定の表象や特定の関係意識をともなった個別概念として内言化されない状態で同時に存在しているのである。このことから明らかなように、「言語単位」は内言化される都度逐次的に形成されているのであり、内言における「言語単位」の「価値」は「連辞関係」によって決定・規定されるのではない。実際には「価値」つまり個別概念が先にあってその個別概念がそれと結びついた「言語単位」として内言化されるのである。「連辞関係」は結果的に生じているにすぎない。また、思考は内言化される以前にすでに明瞭に認識されているのであり、かなり抽象的なあるいは高度に論理的な思考でない限りわざわざ内言化しなくても十分論理的に思考することが可能なのである。そして日常的に反復されるような思考はそのほとんどが内言化されることなく個別概念を介して無自覚のうちに行われているのである。またそうでなければ瞬間瞬間に動作をこなさなければならない日常生活を無理なく破綻することなく無難に行っていくことなど不可能である。

それならなぜソシュールは「言語単位」は「連辞関係」によって生まれる、などと考えたのであろうか。また、ちょっと考えてみれば明らかにおかしいと分かるソシュールの主張をなぜ多くの人たちが受け入れてしまうのだろうか。それは、ソシュールが無自覚のうちに見のがしてしまった意識内の現象を、ソシュールの主張を読む人たちもまたその主張を追体験しながら同様に見のがしてしまうからである。

ソシュールの「言語」体験を追体験しながら、同時にそれを観察的なつまり客観的な立場から絶えず反省してみることにしよう。

ソシュールは自身の心の中で「内言 langue」を観察している。しかし観察するためにはまず「内言」を作り出さなければならない。その「内言」を心の中で作り出すのはもちろんソシュール自身である。思考が「純粋に概念的な(コンセプチュエルな)集塊」であり、「予め何も区別できない不完全なある種の星雲を思わせ」るものであると判断しているのは、これからその思考を「内言」化しようとしているソシュールである。したがって、ソシュールには思考が「概念的な集塊」であることが分かっている。つまり思考の中に「概念的な集塊」が存在し、その集塊を「内言」化しようとしているわけである。ところで、ソシュールはそれが「集塊」であることを知っているのだから、思考が複数個の「概念的な」ものの集合体であることもソシュールは知っているのである。であるなら、ソシュールはその「集塊」の中になんらかの区切りがあることも知っているはずである。でなければ思考は「集塊」ではなく団子のような一つの塊としてしか認識できないはずだからである。とすれば「予め何も区別できない不完全なある種の星雲」という喩えは不適切である。もし星雲が複数の星からなる天体であることを承知しているとしたらソシュールは星雲のうちに星を見ているのである。

このように分析してみると、ソシュールの主張は大げさではあるが受け入れることができる。私自身の思考をとって思考全体を俯瞰して見れば個別概念群の集まりであっていきなりあれは何、これは何と特定することはむずかしいかもしれない。しかし、近寄って見れば一つ一つの個別概念やそれと相互に関連している個別概念の存在は明らかになる。そこから個別概念相互の関連をたどりながらときに俯瞰しながら一つ一つの個別概念を内語化することはそんなに難しいことではない(自分だけが分かればよい思考ならば)。それは「言語単位」を逐次的に生み出すことである。つまり「内語」を作り出す立場から見れば「言語単位」は個別概念から作り出したものであり、それぞれの「言語単位」はそれぞれある特定の個別概念と結びついており、個別の「価値」(意味)を担っている。内語化の際に言語規範の媒介が必要であることはすでに何度も書いているのでここで詳しく書くことはしない(個別概念が介在する表現⇒受容過程ソシュール言語学には個別概念が存在している?等を参照していただきたい)

さて、思考過程が観念的自己分裂の過程であることは大分以前に書いた(主観・客観と観念的自己分裂)。したがって、上に書いたような思考過程も観念的な自己分裂を介して行われている。思考内容を対象化・概念化(客体化)してそれを内言化しようとしているのは現実の自己(主体)から分離した観念的な自己(主体)であるが、作り出された「内言」を観察しているのは、「内言」を作り出したソシュールとは別の主体である。そこではソシュールは観察者あるいは受容者の立場に移行している。つまり、できあがった「内言」の中に「言語単位」を探し求めるもう一人のソシュールである。もし、ソシュールが受容者の立場に移行しないで、「内言」を作り出した立場のままだったら、「言語単位」を見つけ出そうと努力する必要はない。自ら作り出した「言語単位」がどこにあるかなど分かり切ったことであるからである。それでは、「内言」の中に「言語単位」を探し求めるもう一人のソシュールとは誰かといえば、それは観念的に他者の立場に移行したソシュールである。観察者としてのソシュールは、「内言」を他の誰かが作り出したもののように客観的に見ているのである。この他者の立場から「内言」を見れば、そこに存在するはずの「言語単位」いや「価値」はもはや自明のものではない。

このような意識内の現象を理解するには、他者に向けて何かを書きながらそれを推敲する自分のことを考えてみればよい。あるいは後日のために何か覚えのようなものを書き留めて、それを読み返しながら確認している自分を思い浮かべてみるとよいかもしれない。書いている立場の自分には自明のことであっても他者や時間を経て記憶の薄れた自己にとっては自明ではないかもしれない。先に書いた私の内言についていえば、もしそれが紙に書き留めて机の上に置いてあったとして、それを他人が読んでも一体何のことだか分からないであろう。他者に理解できるような形にするには、それを読む他者の立場に立って記述内容を詳しくするとか、さらに余分な情報をつけ加えるとかする必要があるだろう。推敲する場合には、このように他者の立場に移行して、文脈をたどりながらその内容を吟味する必要があるのであり、改めて用語や文脈や語順や情報量等について工夫することが求められるわけである。

こうして他者の立場に移行したソシュールにとって目の前にある「内言」は初めて見るものと映っている。したがってそこではソシュールは「内言」を分析する観察者であり、「内言」の意味をつかみ取ろうとする受容者である。観察者・受容者に与えられているのは「内言」そのものであって、それを構成している個々の「内語」が相互にどのようにつながっていてどんな個別概念と結びついているかは不明である(もちろん自分が作り出した「内言」であるから実際は分かっているのであるが、他者の立場に移行した自分には未知のものとして「内言」を扱うのである)。手がかりはそれぞれの「内語」と結びついている「概念(意義)」と「内語」相互の関係つまり「連辞関係」である。これらの手がかりを元にしてソシュールは「内言」のうちに「言語単位」を見つけ出そうとするわけである。

以上から明らかになったように、「言語単位」を生み出すのは「連辞関係」である、とソシュールがいうとき、そのソシュールは「内言」を作り出したソシュールではなく、作り出された「内言」を観察し、受容する立場に移行したソシュールなのである。観察者・受容者としてのソシュールの目の前には一次元に連なった「内語群」という形で「内言」が存在している。観察者・受容者としてのソシュールの目の前には一挙に分節されたかのような形で「思想」が再現前しているのである。それが前に示した図1, 図2なのであろう。

こうして受容者の立場から「内言」を見るとき、ソシュールの主張にはそれほど奇異なところはない。むしろ受容者の立場としては当然のように見える。ソシュールは無自覚のうちに立場の移行を行っていたのであり、その移行に気がつくことがなかったのである。ソシュールの主張を抵抗なく受け入れている多くの人たちもまた、ソシュールの主張を追体験しながら無自覚のうちにソシュールと同じように立場の移行を行っていたのであろう。ただし、現実に表現された言語を受容する場合、その意味を聞き(読み)とるためには「連合関係」「連辞関係」だけでは不十分である。表現者がどんな人でありどのような状況で言語表現を行ったかをできる限り考慮して表現された言語を表現者の立場において追体験することがもっとも重要なことである。むろん「連合関係」や「連辞関係」も重要であることはいうまでもない。

結局のところ、「連合関係」と「連辞関係」とから「言語単位」の生成を説明しようとして果せないソシュールの徒労は、「内言」を作り出した主体と「内言」を受容・観察する主体とをなんとか一体化したいというソシュールの詮ないあがきである。もしソシュールが「パロール」や「エクリチュール」の表現過程やそれらを受容する過程について自身の意識内で起こる現象をつぶさに観察するということを行っていたなら、「言語単位」を生み出すのは「連辞関係」であるなどという主張は生まれなかったにちがいない、と私は思う。

しかしながら、『第二回講義』の「けれども、ことばは一種の鋳型であるなどという陳腐な誤りに陥ってはならない。それは、ことばを何か固定した堅固なものとみなすことだが、音的素材にしたってそれじたいでは思考と同じくらい混沌としている。鋳型どころではない。音を便利に使ったそのような思考の物質化などはありえない。そこにあるのは、思考−音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない。(『ソシュール講義録注解』前田英樹訳 p.59) という部分をあらためて熟読してみると、ソシュールもそのことにうすうす気がついていたのではないかと思われてならないのである(引用文中の「ことば」とは langage である。前田はこれを「潜勢的な(言語)能力」だといっている)。この部分の表現には思考を「内言」化する立場が反映されている(受容者としての立場が混入してはいるが…)。

したがって、ソシュール「言語学」とは何か(6)にも書いたことではあるが、「ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。(『寝ながら学べる構造主義内田樹) というような巷間流布しているソシュール理解はやはり間違っているのだ。「けれども、ことばは一種の鋳型であるなどという陳腐な誤りに陥ってはならない。……音を便利に使ったそのような思考の物質化などはありえない。そこにあるのは、思考−音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない。」という上記のソシュールのことばをきちんと読みとるならばそのような誤解は生じないはずである。

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