ちょっとボヤいてみる

〔2006.11.25記〕

以下は愚痴である。

ソシュールの講義のような難解な言語に出会うと、つくづく「言語で分節されることによって思想は分明になる」などという御託の虚しさを感じる。いかに語概念⇔語韻の体系を身につけていようともソシュールの言語表現の内容はちっとも分明になんかはならないのである。分明になっているのは言語を表現しているソシュール当人の意識の中だけである。あるいは当人の頭の中でさえ、不分明なままかもしれない。対象を明瞭に理解し把握するために大事なのは言語などではない。対象をいかに適切に(個別)概念化するかである。対象を概念的に把握することができれば、対象を理解できるのである。その概念的に把握した対象を他者に伝えるには言語の仲立ちが必要であるが、自分の把握した個別概念をどうやって言語化するかが表現者に課された任務である。言語化が適切でなければその表現を受容する者に無用な苦痛を強いることになる。ソシュールのように乱雑に言語を扱う人間には他者の苦労が分からないのであろう、とさえ私は思う。ソシュール「言語」学が誤解される第一の原因はソシュール自身の言語にあるのかもしれない。

ソシュールを読むのはほんとに苦痛である。