ソシュール「言語学」とは何か(4)

〔2006.11.22記・同日一部修正/追記〕

前稿では「読む気はほとんど失せてしまっている」と書いた『ソシュール講義録』だが、気を取り直して前の方を読み返しつつ少しずつ読み進めている。

前稿に書いたように、ソシュール「言語」(langue)を実践しつつ「言語」の性格を観察し分析している。ソシュールの目的は「言語」の内部に成立する単位の発見である。

言語表現を受容するにあたっては、時枝誠記のいう主体的立場(表現者の立場に立って表現を主体的に追体験する立場)と観察的立場(観察者という立場から表現を外部から客観的に分析・研究する立場)とがあり、時枝は「観察的立場は、常に主体的立場を前提とすることによってのみ可能とされる」という。このことは「言語」内部で「言語」を実践し、それを観察し分析するソシュールについてもあてはまるであろう。厳密にいえば思考・内言は表現ではないが、内言を意識内部で主体によって客体化された「表現」ととらえれば同じように考えられる。ことに内言は「表現」する者と「受容」する者が同一の自己であるから主体的かつ観察的な立場に容易に立つことができる。前田は注解―p.74―において『ソシュールの「語る主体」はラングの主体であって、パロールの主体ではない』と指摘している。

さらに重要なのは『ソシュール講義録』を読む私自身もまた主体的かつ観察的な立場に立つことを要求されているということである。『ソシュール講義録』は注解部分を含めて 185ページある。私はまだ 75ページしか読み進めていない。気が乗らないことと何度も読み返していることが遅々として進まない原因ではあるが、ソシュールの立場に立つことが容易ではないということがその主な原因である。まずもって用語の概念をつかみ取るのに四苦八苦しているのである。「語」とは「言」(parole)におけるものなのか、それとも内言におけるそれなのか、あるいは言語規範におけるそれなのか…といった具合である。

しかし、印欧語と日本語という違いはあるにせよ、同じように「言語」あるいは内言を実践している意識内部の現象がソシュールと私とでそれほど異っているはずはない。ソシュールの意識内部で起こっていることを追体験することができれば、私にもソシュールのいっていることが理解できるはずである。その意味で前田英樹のこなれた訳文はありがたいし、特に注解はソシュールの意図を探り当てるための導きとして大いに助けになる。

「言語」内部に単位を探し求めるソシュールにとって、その単位を定めるための手がかりはどうやら「言語」――思考・内言――における質ないし価値であるという思いが強まった。そしてそれはソシュールが「言語的実在」と呼ぶものであり、「究極的単位としての諸区分」と呼ぶ「神秘的な」実在である。それが何であるかについて私はすでに書いている。

前々稿で私はそれは個別概念(群)であると書いた。また、「ソシュール言語学には個別概念が存在している?」(2006.09.09) では『一般言語学講義』(小林英夫訳)の当該箇所にある『いささか神秘めくが,「思想・音」は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである』について、「この内含された区分こそ個別概念(普)である」と書いている〔しかしこれも「個別概念(特/普)」とあらためる必要がありそうだ――11.22追記〕。

こうしてソシュールの意識内部に立ち入ってみると、拡張された「言語」の領域として私が以前から主張してきた「言語規範に媒介される限りでの思考の領域」という解釈は、『思考しつつそれを観察する主体の意識』という風にあらためなければならないようである。そこには認識される客体としての「言語」(内言)と「言語」(規範意識・言語規範)を媒介として「言語」(内言)を「表現」し「受容」する主体とがともに存在している。つまり、そこは思考する人間なら誰でも経験できるありふれた領域である。ソシュールは内言にしか注意を払っていない(多くの人もまた思考=内言と考えている)がそこには内言化された個別概念以外にも多くの生き生きとした個別概念が存在している。ソシュールはそれらを「混沌とした思考」という概念で簡単に片づけてしまったが、そこにこそソシュールのいう質あるいは価値が存在しているのであり、言語単位はその質・価値つまり個別概念によって「分節」されて生じるのである。

ある意味でソシュール時枝誠記三浦つとむと同じように個別概念を捉えている。しかし、「言」「書」とを「言語」から切り離すと同時に、個別概念を意識にもたらす対象をもソシュールは切り捨ててしまった。そうやって外部のあらゆる「不純物」から切り離したはずの「言語」の中に言語単位を探し求めたソシュールがその単位の手がかりとしてつかんだのが「神秘的な」実在たる「不純」な個別概念――それは「言語」外部の対象から主体がつかみ取ってきたものだ――であったというのは皮肉である。

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