シニフィエについて

〔2007.01.28記〕

ソシュール用語を再規定する試み(1)(2006/08/29) に対して takekiさんからいくつかコメントをいただいています。takekiさんはその中でシニフィエについて書いておられます。それにお応えするためにいろいろ考えたのですが、結局はシーニュをどのようなレベルでとらえているのかをはっきりさせないままではシニフィエについてきちんとしたお話はできないだろうと思っています。つまりシーニュというのはなのか内語なのか、それとも語規範なのかということであり、シニフィアン語音語音像語韻のうちのどのレベルで考えているかということです。なお、これらの用語については、記事内の用語について(2007年1月25日修正・追記)「内語」「内言・思考言語」の再規定言語音・言語音像・音韻についての覚書などを参照して下さい。

ソシュールは語規範(連合関係・パラディグム)のレベルと内言(連辞関係・サンタグム)のレベルとの両方において別々に「シーニュ」を規定しています。また、構造言語学では、さらに表現された言語(話し言葉・書き言葉等)のレベルにまで拡張して「シーニュ」という概念が使われていますし、さらに構造主義やその流れを汲む記号学では、言語以外のあらゆる「記号」的なものにまで「シーニュ」は際限なく拡張されて用いられています。

言葉というのは、なんらかのものごと概念的に把握し(個別概念)、その概念的に把握した認識(個別概念)を、言語規範に媒介された概念と結びついた一定の種類の形象(言葉=言語音・文字など)として表現したものであり、表現された言葉の背後には表現しようとしたものごととの結びつきが表現者の認識(個別概念)を仲立ちとして間接的に存在しています。

私たちは他の人間の認識(個別概念)を直接知ることはできませんが、言語表現その他の表現物を仲立ちとして、表現者の認識に到達し(観念的な追体験)、さらにその認識を仲立ちとして、表現者が表現しようとしたものごとに到達することができます。つまり、表現者の意図や表現しようとしたものごと(=言葉の意味)は言葉(言語表現)を仲立ちとした間接的なつながりとして表現された言葉に結びついて(比喩的にいえば「凝結し」て)いるのです(ここでは詳しく書くことはできませんが、彫刻や絵画・写真・映画等の表現物や言語における非言語的表現においては、表現者の意図や表現しようとしたものごと(=表現物の意味・内容)は言語表現とは異なり、規範に媒介された概念を介さずに、形象形態である表現物に直接的に結びついて表現されています)。しかし、表現者が表現を通して表現しようとしたものごとを把握するためには、上に書いた観念的な追体験が必要です。それは表現者の立場に移行しその表現過程を追体験するという想像的な実践です(この想像的な実践のことを三浦つとむは観念的な自己分裂と名づけました)。そして彫刻や絵画等においても、表現者が表現し形象に直接結びついているその内容を理解するにはやはり想像的な追体験つまり観念的自己分裂の実践が要求されることには変わりはありません。

このように、言葉(言語表現)は言語規範を介した間接的な表現であり、その間接的な表現の中で言葉に直接に結びついている概念(語概念)が、表現者の認識である個別概念と間接的に結びついており、さらにその個別概念を介して表現者の意図や表現しようとしたものごとが間接的に結びついています。言葉はこのように複雑な過程的構造をもった表現であり、言語規範を介した間接的な表現であるということが他の表現とは大きく異なる言葉特有の性格なのです。

したがってシニフィエつまり「意味されるもの」が、この複雑な過程的構造のどのレベルにおけるシニフィエなのかをはっきりさせないと議論は混乱するでしょうし、お互いの共通理解はむずかしいでしょう。さらに、シニフィアン「意味するもの」としては言葉や内語あるいは語韻とは異なる「もの」の存在をも考えに入れる必要があります。そしてこれらについても形象形態表象形態概念形態の各レベルを区別して論じる必要があるでしょう。これは記号論記号学の領域です。

そして、言語や記号において、形象形態表象形態概念形態の各レベルにおけるシニフィエがいったいどのようにして形成されるかを根源的に問う必要があるのではないかと現在の私は思っています。それは言語や記号を度外視した、形象形態・表象形態・概念形態の各レベルにおける原初的なシニフィエの存在を問うことです。それはある意味では言語規範を獲得する以前の幼児や言葉を学ぶ以前のヘレン・ケラーの立場になって世界を見ることでもあります。

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