ソシュール的な「語の意義」と「語の価値」


〔2006.09.29記・9.30修正〕

秀さんが 「意義」と「価値」−−語の意味 (2006年09月29日) というエントリーでソシュールのいう語の「意義」と「価値」について書いている。

『一般言語学講義』(p.162)ソシュールが「フランス語の mouton と英語の sheep とは意義はおなじといいえるが、価値はおなじではない」と記述していることに関して、以前「ソシュール言語学には個別概念が存在している?」という稿で「ソシュールのいう意義・価値の定義にも問題がある」と私は書いた。

秀さんも書いているようにソシュールマルクスのいう交換価値を念頭に置いて語の「価値」を考えている。このことは『一般言語学講義』を読めば類推できる。しかし、上記の記述における「意義」「価値」についてのソシュールの規定はおかしい。

調理されて食卓にのぼった一片の肉は、英語では mouton といって sheep とはいわない」がフランス語では食卓にのぼった羊肉も mouton というのであるから、フランス語の mouton と英語の sheep とはその語概念がつまり語義が異なるのである。語義とは辞書に載っている意義のことであるから語義と語の意義とは同じものである。つまり語義が異なるのだから「フランス語の mouton と英語の sheep とは意義はおなじではないのである。

語の価値とは、ある語の意義を他の語の意義と相対比較しそれらを交換可能性という視点から見たものである。つまり語の価値の内実は語の概念つまり語の意義にほかならない。要するに、フランス語の mouton と英語の sheep とはそれぞれの語の意義が異っているのである。それゆえ交換可能性という視点から見れば、それぞれの語の価値は異っているということになる。

ソシュールはフランとドルとの交換可能性を念頭に置いて価値を考えている。だからフランス語の mouton と英語の sheep との交換可能性を考えたのであろう。これは言語と貨幣とのアナロジーから導かれた考えであるが、貨幣の交換価値とはまずもって同一地域内における他の商品との交換可能性として考えるべきであって、他の地域の貨幣との交換可能性を考えるのはまた別の問題であろう。したがってまず第一に考察すべきは、同一言語内における語の価値つまり語彙規範(シーニュの体系」)における語韻(シニフィアン)の交換可能性でなければならない。それは多語一義の問題や一語多義の問題になるであろう。

マルクスは言語を貨幣あるいは商品生産物(貨幣も商品である)になぞらえることが多いが、それは商品生産物が交換価値と使用価値との二つの形態をもったものとして私たちの前に現われるように、言語が意義(価値)と意味とをもった表現として私たちの前に現われるからである。つまりこのアナロジーにおいては意義が交換価値(価値)に相当し、意味が使用価値に相当しているのである。


商品および貨幣の交換価値および商品の使用価値についての秀さんの論考には異論はない。しかし貨幣も商品である以上、それに使用価値がないというのは間違いであろう。貨幣はいつでもどこでも他の商品と交換できるという使用価値をもった商品である。交換の場において相対する商品と貨幣とは第一義的には交換価値であるが、商品の売手にとって貨幣は手に入れるべき使用価値であり、商品は貨幣を手に入れるための手段であるという意味で使用価値なのである。また買い手にとって交換の場は貨幣の使用価値を行使する場であり、何らかの使用価値をもつ商品を手に入れる場でもある。

言語はある対象についてどのような認識をもっているかを他者に伝えるための表現である。表現者の認識は思想としてつまり個別概念群の相互連関として意識の中に存在している。その思想を他者に直接伝えることは不可能であるから、思想は五官でとらえられる形態つまり表現を介して伝えるよりほかに手段がない。言語システムはそのために作り出された。しかし言語は表現者の思想そのもの(表現者が対象をとらえた個別概念群の相互連関そのもの)を直接担うことはできない。言語規範によって定められているのは語の意義つまり価値であって、多様な個別概念個々の内容の一々を定めているわけではないから、表現された言語と直接につながっているのは言語規範に媒介された語概念つまり語の意義(価値)なのである。

このように、言語表現は相関連する個別概念群としてとらえられた対象の普遍的側面が言語規範の媒介によって語の連なりとして表現されたものである。言語規範に媒介されて表面的直接的にそこに存在するのは語概念(意義)の連鎖にすぎない。言語表現の意味は、表現者の経験した〈対象→意識→表現〉過程が言語表現に結びついた間接的な関係として、表現された言語の背後に存在しているのである。

「認識の対象化」(2005/01/31)でも書いたように、表現もある意味では生産物である。言語は物質的生産物であるという側面(言語音や文字)と精神的生産物であるという側面(内容)とが分かちがたく結びついたものとして存在しており、言語表現の意味は言語規範を介して言語表現に対象化され、表現された言語に結びついた関係として表現者の認識・表現活動につながっているのである。したがって言語表現の意味をつかむには、受容者は表現者の立場に立って〈対象→意識→表現〉過程を追体験しなければならないのである。

言語表現の意味については、秀さんの「言語の意味について」(2006年09月28日)がとても参考になる。そこには私には欠けていた視点がある。誤読や意味のない子どもの言葉についての考察や「行為」に関する宮台真司の発想などには啓発された。