ソシュール用語を再規定する試み(2)


〔2006.09.02記・同日追記・09.03修正〕

言語学の用語についての実験的試み」(2006.08.29)(「ソシュール用語を再規定する試み(1)」にタイトルを変更しました) に対してオータムさんから啓発されるコメントを戴いきました。そのコメント及びそれに対する私のご返事はコメント欄を参照して頂くとして、ご返事を書いた後で気がついたこと、考えたことを簡単に書いておきます。

まず「語彙」という言葉について。『大漢語林』(大修館書店)によると「(1)一定の言語体系の中で用いられる語の総体。またそれを類別して集めたもの。辞書。(2)特定の個人、あるいは部門で使用する単語の総体。またそれを集めたもの。」である。それではソシュール「言語langue」についてどういっているだろうか。

『一般言語学講義』小林英夫訳・岩波書店、p.27〜28


 言語の特質を要約してみよう。

1.それは言語活動事実の混質的総体のさなかにあって,はっきり定義された対象である.その所在を循環の一定部分に求めることができる.すなわちそれは聴取映像が概念と連合する場所である.それは言語活動の社会的部分であり,個人の外にある部分である;個人では独力ではこれを作りだすことも変更することもできない;それは共同社会の成員のあいだに取りかわされた一種の契約の力によってはじめて存在する.他面,その営みを知るには,個人は学習を必要とする;子供は徐々にしかこれをものにしない.…

3.…それは記号体系であり,そこでは意味と聴覚映像との合一をおいて他に本質的なものはなく,また記号の二部分はひとしく心的である.

4.…言語記号は,本質的に心的でありながら,さればとて抽象的ではない;集団的同意によって批准され,それの総体が言語を組みたてる連合は,その座を脳のなかに有する実在である.…おのおのの聴覚映像は,…限定数の要素すなわち音韻の総和にほかならず,これらの要素はまた,書における相当数の記号によって喚びおこしうるものである….このように言語にかんする事物を定着することができればこそ,辞書と文法とはそれの忠実な代表でありうるのである,言語が聴覚映像の貯蓄であり,書がそれらの映像の・手を触れることのできる形態であるからには.

ソシュールの規定には検討しなければならない部分がいろいろあるが、とりあえず「(言語記号の)総体が言語を組みたてる連合」という言い方や「記号体系」という表現から、「言語langue」語彙ないし語彙規範と同じであると考えられる。したがって「記号の体系」という意味で用いられる「言語」語彙規範と表記するのが分かりやすい。しかし、「辞書と文法とはそれの忠実な代表でありうる」という記述からソシュール「記号の体系」だけでなく文法もまた「言語langue」に含まれると考えているから、その意味では三浦つとむのいうように言語規範の方が適切である。


『一般言語学講義』には「言語langue」がいわゆる「思考言語」を指していると推測できる箇所もある。しかし、それは「言語活動langage」総体から「言parole」を除外した部分という規定からくる例外的な用法であろう。

言語の習得過程は、言語の受容を通じた言語規範の獲得過程と、獲得した言語規範を使った(媒介とした)言語表現過程との交互反復過程である。前者は他者による表現〈対象→意識→言語〉を対象(媒介)として、自己が言語を受容〈言語→意識→対象〉し、さらに対象を理解〈対象→意識〉する実践的な言語活動であり、後者は前者と立場を入れ換えた形の実践的な言語活動である。

ところで、乳幼児の言語習得過程は、はじめのうちは語韻およびそれと連合すべき語義(語概念)の習得が主である。つまり語彙規範の獲得を主たる目的としている(『発達心理学(保育・看護・福祉プリマーズ(5)、無藤隆編・ミネルヴァ書房)では「語彙の獲得」という言葉が使われている)。しかし、その獲得過程は不完全ながらも上記の言語習得過程と同じ実践的な言語活動であるから、そうした言語活動を何度も何度も繰り返すことを通してその目的も質的に変化し、その本来の目的である言語規範の獲得へと自然に移行していく。

つぎにシニフィアンsignifiant」シニフィエsignifie」であるが、それぞれ語韻語義でよいと思われる。ただし、概念であることをはっきりさせたいときは語概念とよぶ方がいいかもしれない。オータムさんに対するご返事に書いたように、辞書は「記号の体系」を目に見える形で表わしたものである(上記引用中でソシュールもそういっている)。国語辞典では<見出し>の仮名表記部分が語韻を表わしており、漢字(+送り仮名)部分が書き言葉の語韻つまり字韻(造語である)を表わしている。そして<語釈>が語義つまり語概念を説明する部分である。<語釈>にはふつう語の意義つまり語概念の内包が記述してあるが、場合によっては語概念の外延を例記していることもある。

最後に「記号・シーニュsigne」である。これは語韻語義(語概念)とが連合して対になっているものである。語韻は語の音声から抽象された音韻(概念的な音声表象)であり、語義(語概念)は語が表わすべき概念として対象から抽象された普遍概念であるから、これらが意識の中で連合しているのは必然である。つまりシーニュある概念はある語音で表わすべきであるという語に関する規範が、語韻語概念とが結びついた形(語韻⇔語概念)で認識されたものである。端的にいえばシーニュ語の持つ構造が規範認識として抽象化されたものである。シーニュ語観念としたのはそのような背景があってのことである。

ところで概念は現実の世界の階層構造を反映した人間のカテゴリー認識の産物であるから、概念は現実の世界の階層構造にしたがって必然的に分類され概念総体の階層的構造の一定の場所に位置するという性格を持っている。また、語韻および語概念は言語の主体である各民族の生活環境や経済的・政治的・文化的な背景や物質的・精神的交通関係にしたがって規定され、各語韻・各語概念は互いに関連し規定しあう関係的な構造をも形づくっている。それゆえ語彙規範つまり「言語」は、語概念語韻のもつ階層的構造・関係的構造にしたがって、語観念をその構成要素とする複雑な構造的体系を形成している。

そしてこのことは、世界に対する人間の探求の結果カテゴリー認識が変化したり、その社会を取り巻く生活環境やその他の諸条件が変化すれば、それを反映して各語韻各語概念の形や内容あるいはその階層的・関係的構造も変化することを意味する。こうして結局はそれらの変化が言語規範の内容や体系的構造の変化をもたらすことになる。加えて、言語規範は自然発生的な規範であり、法律等に比べると、相対的にゆるい規範であるから徐々にではあるが絶えず(時には劇的に)変化しつづける宿命を負っているのである。

以上はソシュールとは逆に三浦つとむに倣って現実の言語表現・言語受容過程から出発して、ソシュール「言語」シニフィアンシニフィエシーニュを再規定したものである。ソシュールは「語ではなしに,ものを定義したい(『一般言語学講義』)といって、「言語」という語の実体を探すために現実の言行為を離れて人間の意識の中にそれを求めたのであった。しかし、三浦つとむはわれわれの目の前にある物理的形態をもつ表現された話し言葉・書き言葉・手話・点字こそが言語そのものであるとして、言語のもつ過程的構造へとその探求の歩を進めたのである。

古今東西、言語(言葉)とは表現された話し言葉・書き言葉のことであった。そして、人々はソシュールが発見する以前に、無自覚ではあるが「言語」シニフィアンシニフィエシーニュといった存在を知っていたのである。語彙という言葉の存在や辞書の項目立てそして各項目の内容(見出し・発音記号・語釈)がそれを示している。

〔追記〕

【当座の再規定用語】


シニフィアン」 →「語韻」

シニフィエ」  →「語義」または「語概念」

シーニュ・記号」→「語観念」

「記号の体系」  →「語彙」または「語彙規範」

「言語」     →「言語規範」場合により「語彙規範」