ソシュール言語学には個別概念が存在している?


〔2006.09.09記・同日一部修正/追記・09.14追記〕

前稿「個別概念の介在する表現⇒受容過程」(2006/09/08)を書きながら私は『一般言語学講義』のあの有名な箇所(第II編第4章§1)を思い浮かべていた。ソシュールの後継者たちは、その部分を引用して「人間は『言語』によって世界を切り取って、世界を認識している」という。それゆえ、「言語」を異にするそれぞれの社会では、世界に対する認識すなわち解釈は異なるという風に論理を展開する。

しかし、その論理の道筋は間違っている。「言語」が異っているから世界観が異なるのではない。逆である。世界観が異なるから、それを反映して「言語」が異なるのである。人間を取り巻くさまざまな環境つまり自然的・経済的・政治的・社会的等々のさまざまな条件(科学的知見や技術的水準等を含む)が人間の世界観の枠組みを形成するのである。言語は人間の意識のあり方を物理的な形態で表現するものである。そうであってみれば、言語表現を行なうための規範(言語規範すなわち「言語」。規範はイデオロギーである)が人々の意識のあり方・考え方・世界観を表現するのに適した形になり、その「言語」(言語規範)が人々の世界観を反映したものになるのは至極当然なことである。その結果として「人間が『言語』によって世界を切り取って、世界を認識している」ように見えるだけなのである。

つまり、「人間は『言語』によって世界を切り取って、世界を認識している」というのは逆立ちした考え方なのである。それにソシュールは果してそういっているであろうか。何度も引用している箇所であるがもう一度引用する。

『一般言語学講義』小林英夫訳・岩波書店、p.157〜158


 言語が純粋価値の体系でしかありえないことを会得するには,その働きにおいて活躍する二要素:観念と音とを考察するだけでよい.

 心理的にいうと,われわれの思想は,語によるその表現を無視するときは,無定形の不分明なかたまりにすぎない.記号の助けがなくては,われわれは二つの観念を明瞭に,いつもおなじに区別できそうもないことは,哲学者も言語学者もつねに一致して認めてきた.思想は,それだけ取ってみると,星雲のようなものであって,そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない.予定観念などというものはなく,言語が現われないうちは,なに一つ分明なものはない.

この浮動的な王国と向かい合って,音のほうこそはそれだけであらかじめ限りとられた実在体を呈しはしまいか? おなじことである.音的実在体とても,より堅固なものでもない;それは思想がぜひともその形をとらねばならない鋳型ではなくて,一つの造形資料であり,これまた分明な部分に分かたれて,思想の必要とする能記を供するのである.〈ソ図〉それゆえ総体としての言語的事実すなわち言語は,これを同時に茫漠たる観念の無限平面(A)と,音の・それにおとらず不定のそれ(B)との上に引かれた,一連の隣接下位区分として表わすことができる;その模様はこの図をもってよく彷彿させることができよう:

 思想と向かい合っての言語独特の役割は,観念を表現するために資料的な音声手段をつくりだすことではなくて,思想と音との仲を取り持つことである,ただしそれらの合一は必然的に単位の相互限定に落ちつくことになる.ほんらいこんとんたる思想も,分解するや,明確にならざるをえない.それゆえ思想の資料化があるわけでもなく,音の精神化があるわけでもない;いささか神秘めくが,「思想・音」は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである。……

この部分は「音的資料へと組織された思想としての言語」というタイトルが示すように、「言語」が登場する以前の「茫漠たる観念の無限平面」つまりなんら「必然的に区切」りをもたない不分明な「思想」と、同様になんら「必然的に区切」りをもたない不定の「」(言語音表象)とが「言語」のとりもちによって「分節」され、シーニュ(語規範)の連結した「「思考言語」」としてつまり「音的資料へと組織された思想としての言語」として成立する過程が書かれている。ここでの「言語」の「役割は…思想と音との仲を取り持つこと」すなわち「思想と音」とを媒介することである。

つまり、不分明で茫漠としていた思想が「言語」に媒介されて分明な思想となる、とソシュールはいっている。ごく素直に解釈すれば、対象からもたらされたもやもやとした思想が「言語」の媒介によって明瞭な思想となるといっているにすぎない。ソシュールは「人間は『言語』によって世界を切り取って、世界を認識している」とまではいっていないのである。

ここで、前稿で私がシェーマで示した〈対象→意識〉の過程を見てみよう。甲が猫を見て「ネコ」という語音表象を脳裏に浮かべるまでの過程である。

 属性(A普/A特)個別概念(b普/b特)語概念(c普)⇔語韻(d普)語音像(e普/e特)

ソシュールのいう「茫漠たる観念の無限平面」の一要素が、ここでは個別概念(b普/b特)として表わされている。それは人間が対象からつかみ取る個別概念であるが、それは時と場合によってそれぞれ異った把握のされ方をする個別概念である(抽出される属性の範囲が異なるという意味。見ようによっては恣意的な抽象に見えるが相応の合理性がある選択である)。そしてこの個別概念は対象との結びつきを保った――特殊性の認識を伴った――普遍概念であり、多くの場合表象(知覚表象の場合もある)をも伴っている。このことは思想といわず人間の認識一般の特性である。

たとえば前稿で例に挙げた「通りで目にした見慣れぬ白い」は、「猫」一般として認識されてはいない。それは「通りで目にした猫」であり「見慣れぬ猫」であり「白い猫」である。それ以外にも甲は猫の大きさやその風体やあるいは何をしていたかについて具体的に認識していたはずである。甲の脳裏に生成した個別概念(b普/b特)はそのような具体性を伴った概念なのである。言語規範が媒介する以前に甲はすでにそのような明瞭な「思想」をもっていたのである。甲はその対象について具体的な認識=特殊性の認識(個別概念(b特))を保持したままその対象を「猫という類の動物」であると認識した――「猫」という普遍概念=個別概念(b普)を抽出した――のである。この個別概念(b普)が言語規範(語概念(c普)⇔語韻(d普))に媒介されて「ネコ」という語音表象(語音像(e普/e特))が生成し、甲の脳裏に浮かんだのである。

思想を「茫漠たる観念の無限平面」だというソシュールも、上記引用の最後のところで「いささか神秘めくが,「思想・音」は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである。」といっている。前の方で「必然的に区切られているものは一つもない」といいながら、ここでは思想は「区分を内含し」ているといっている。そうでなければ、「言語」の媒介によって思想を分節することなどできないことをソシュールは承知していたのである。この内含された区分こそ個別概念(普)である。〔ソシュール流にいえば、「言語」が登場する以前に思想は個別概念(普/特)としてすでに「分節されている」のである。――09.09追記

さて、ソシュールの解説にはもう一つ問題がある。上で「この個別概念(b普)が言語規範(語概念(c普)⇔語韻(d普))に媒介されて「ネコ」という語音表象(語音像(e普/e特))が生成し」と書いたように、言語規範の媒介によって結びついて成立した「個別概念(b普/b特)語音像(e普/e特)」という連合はシーニュ(語規範)ではない。個別概念(b普/b特)は甲が対象から抽象したものであり、語音像(e普/e特)は言語規範の媒介によって新たに形成されたものであるから、シーニュ語概念(c普)⇔語韻(d普))とはその質が異なる〔前者は 個別概念(普/特)⇔語音像(普/特) であり後者は 語概念()⇔語韻() である(この違いを考慮しないから構造言語学では意味論が確立できないのである)――09.09追記〕。したがって、「音的資料へと組織された思想としての言語」といういい方は不適切である。それは「音的資料へと組織された思想」であって、実質は「言語規範の媒介によって、個々のひとまとまりの語音像の連なりと一対一に結びつけられた(=対応する語音像と結びつけられた)個々の個別概念の連なり〔この部分は09.09に表現を修正」である(思想を構成しているのはこの連なりだけではない)。つまり、いわゆる「思考言語」「言語langue」ではないのである。また「いささか神秘めくが,「思想・音」は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである。」についても同様である。「言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立し」はしない。新たに「言語」が生じているわけではないのである。

「言語活動langage」の混質性をあれほど嫌っていたソシュールが、「純粋」な「言語」のうちにいわゆる「思考言語」という「異質物」を導き入れていたのは皮肉なことである。

もう一つ、「人間は『言語』によって世界を切り取って、世界を認識している」と主張する人たちが援用するのは上記引用部分と同じ章(p.162)にあるソシュールの言である。ソシュールはその箇所でフランス語の mouton(羊) と英語の sheep(羊) とは「意義」は同じだが「価値」は異なる、という(ソシュールのいう意義・価値の定義にも問題があるがここでは措いておく)。調理されて食卓にのぼった羊肉は英語では mouton といって sheep とはいわないからだという。これは要するに食文化の違いが言語規範に反映している例である(文化もまた自然的・経済的・政治的・社会的等々のさまざまな条件によって規定されるものである)。かつてイギリスやアメリカでは羊の肉を食する習慣がなかったのであろう(確信があるわけではないがそう推定できる)。その後、羊の肉を食する習慣がフランスからもたらされた結果、 mouton という外来語が定着したのであろう。他の理由があるかもしれないが、いずれにせよ mouton という語が英語の言語規範に採用されたから食肉としての羊が認識され、羊肉を食べるようになったわけではない。ただし、ソシュールはこの例によって、「概念」(語概念)の取り出し方は恣意的である、といっているだけであるから、これを援用して「人間は『言語』によって世界を切り取って、世界を認識している」と主張するのはやはりおかしい。それに「概念」(語概念)の取り出し方が恣意的に見えるのは、個物自体が多様な個別概念として把握しうるものであることと、最初に述べたようにイデオロギーである言語規範が究極的には自然的・経済的・政治的・社会的等々のさまざまな条件によって規定されるものだからである。

以上、『一般言語学講義』におけるソシュールの記述を検討することによって、ソシュールは「人間は『言語』によって世界を切り取って、世界を認識している」とまではいっていないこと、言語規範の媒介以前における個別概念の存在を、ソシュールは否定していないのではないかということ、いわゆる「思考言語」「言語」ではないこと、そして「人間は『言語』によって世界を切り取って、世界を認識している」という主張は逆立ちした考え方であるということ、が明らかになったと私は思う


〔以下09.14追記

上で「〔ソシュール流にいえば、「言語」が登場する以前に思想は個別概念(普/特)としてすでに「分節されている」のである。――09.09追記〕と書いたが、上記引用の直後にソシュールは次のように述べている。


それゆえ言語学のしごと場は,二つの秩序の要素が結合する境界地域である;この結合は形態をうみ,実体をうみはしない.

以上の見解は,……記号の恣意性について述べたことをいっそうわかりやすくしてみせる。言語的事実によって結ばれた二つの領域は,ただに茫漠・無定型であるのみならず,なおなにがしの概念にたいしなにがしの聴覚的切片をあてがう選択は,まったく恣意的である。もしそうでないならば,価値の概念はその特質のいくぶんかを失うであろう,というのもそれは外部から押しつけられた要素をふくむことになろうから.ところがじつをいえば,価値はまったく相対的なもので
あって,さればこそ観念と音との連結は徹底的に恣意的なのである。

こんどはまた,記号の恣意性が,なぜひとり社会的事実が言語体系をつくりだすことができるかを,いっそうわかりやすくしてみせる.集団は,価値の成立のために必要であって,これの唯一の存在理由は,慣用と一般的同意のうちにある;個人一人ではそれを一つとして定めることはできないのだ.

二つ目の段落はシーニュ(語規範)の成立について述べているように見える。そうだとすると「なにがしの概念にたいしなにがしの聴覚的切片をあてがう選択」という記述はシーニュ(「言語」)が形成される以前にすでに概念が存在していることをソシュール自ら認めていることを示している。

あるいは思想を「言語」によって分節する過程をあらためて述べているのかもしれない(私にはそうは読めないが)。もしそうだとするなら、これは「言語」によって「分節される」以前に思想の中にすでに概念が存在していることを意味している。

どちらにせよ、「概念が「言語」に先立つ」ことをソシュール自ら認めていることには変わりはない。