貨幣の使用価値


〔2006.09.30記・同日追記〕

本筋ではないが、秀さんが 「意義」と「価値」−−語の意味 (2006年09月29日) の中で「貨幣そのものに使用価値がな」いと書いておられたので、前稿において私は注記の形で「貨幣はいつでもどこでも他の商品と交換できるという使用価値をもった商品である」と指摘した。その注記に関して秀さんからコメントを戴いた。コメントには後でお応えすることにして、まずは貨幣の使用価値について私の見解を少々詳しく述べる。

金が貨幣であった時代には貨幣もまた他の商品と同じようにその交換価値はそれを生産するのに必要な一般的抽象的労働として規定されていたが、現在の管理通貨制度における貨幣の交換価値の規定はそれとは異っている。このことは貨幣の使用価値を考えるときにもその差を考慮する必要があることを意味するが、以下では金の使用価値と現在の貨幣の使用価値との間にある差異については考慮せず、両者に共通する使用価値つまり「貨幣の貨幣としての使用価値」についてのみ考える。

秀さんもコメントでいっているように物の使用価値とは物の有用性のことである。とすれば貨幣に有用性があることは誰も否定できない事実である。「『語義』と『価値』−−語の意味」の中で「商品をため込んでおかなくても、とりあえず貨幣を持っておけば、交換という機能を保つことが出来る」と秀さんも書いている。かさばらず、移動・保管が簡単にできていつでもどこでも他の商品と交換ができる、というこの機能こそが他の商品にはない貨幣独自の有用性つまり貨幣の貨幣としての使用価値である(以下「貨幣の貨幣としての使用価値」という代わりに単に貨幣の使用価値と表わす)。マルクスは貨幣の機能を「購買手段・流通手段・支払手段・…」のように分けて考えているがここではそれほど細かいことは考えなくてもいいであろう。

一般に物の使用価値はその物が人間によって使われる(消費される)ことで実現される。そして、物の使用価値は物それぞれによって多様であり異っている。食料品は食べることでその使用価値が実現されるが、機械の場合は人間の労働を軽減するという人間にサービスする機能を利用することでその使用価値が実現される。しかし貨幣の使用価値は他の商品のそれとは際だった違いをもっている。それは交換の場こそが貨幣の使用価値が実現される場であるということである(貨幣と同じような機能をもったものはほかにもあるが)。交換の場は商品と貨幣とが相対してそれぞれの交換価値を示しあう場であるから、貨幣の使用価値が見えにくくなるのはやむを得ないかもしれないが、購買手段としての貨幣の使用価値が実現するのはこの交換の場であり、交換が成立したときにその使用価値が実現されるというのが他の多くの商品の使用価値とは異なる貨幣の使用価値の特異な性格なのである。

このような独特な性格をもった貨幣(金)の使用価値について、マルクスは『経済学批判』の中でつぎのようにいっている。なお下線は私がほどこしたものである。

『経済学批判』(武田隆夫・遠藤湘吉・大内 力・加藤俊彦訳/岩波文庫)


販売 W―G でも、購買 G―Wと同様に、交換価値と使用価値との統一体であるふたつの商品が対立している、しかし、商品にあっては、その交換価値はもっぱら観念のうえで価格として実在するのにたいして、金(きん)にあっては、それ自身はひとつの現実的な使用価値であるにもかかわらず、その使用価値は、ただ交換価値の担い手としてのみ実在し、したがってもっぱら形式的な、実際の個人的欲望とはなんの関係もない使用価値として実在しているにすぎない。それゆえ使用価値と交換価値との対立は、W―Gの両端に極として配分されており、したがって商品は、金(きん)に対立する使用価値、つまりその観念上の交換価値である価格を金(きん)ではじめて実現しなければならない使用価値であるが、他方、金(きん)もまた、商品に対立する交換価値、つまりその形式的な使用価値を商品ではじめて物質化する交換価値なのである(p.111〜112)

W―Gの過程では、現実的な使用価値であるとともに観念的な交換価値である商品が、現実的な交換価値でありただ観念的にのみ使用価値である貨幣と関係をもった。売手は使用価値としての商品を譲渡することによって、その商品そのものの交換価値と貨幣の使用価値とを実現した。逆に買い手は交換価値としての貨幣を譲渡することによって、貨幣の使用価値と商品の価格とを実現した。(p.181〜182)

(金(きん)――シカゴ注)いつでも交換できるがゆえに、いつでも使用できるという形態で現存しており、…(p.114)

 購買 G―W は W―G の逆の運動であり、同時に商品の第二の変態、または最後の変態である。…商品の譲渡の一般的産物は、絶対に譲渡できる商品である。(きん)の商品への転化にとっては質的制限はすこしもなく、ただ量的制限、つまりそれ自身の量または価値の大きさの制限があるだけである。「現金とひきかえならばどんなものでもうることができる。」商品(金(きん)――シカゴ注)は、運動 G―W においては、使用価値として脱却する〔譲渡される〕ことによって、それ自身の使用価値とほかの商品の価格とを実現するのである。商品は、その価格を実現することによって、同時に金(きん)を実際の貨幣に転化するが、その再転化によって、金(きん)を商品そのものの単に一時的な貨幣存在に転化する。(p.115)

さて、秀さんのコメントは以下の通りです。


コメント:交換出来ることは使用価値になるか

2006/09/30 土 09:36:48 | 秀 

「他の商品と交換できる」と言うことを「使用価値」と呼ぶのは、「使用価値」という対象のレベルを混同することになるのではないでしょうか。

普通の意味での「使用価値」は、あくまでも普通の「使用」に対して有用性があるという意味で捉えるべきではないかと思います。有用性があるからこそ、その有用性を手に入れたいと願うことで商品の購入という動機が働くのだと思います。

貨幣の場合は、そのような使用価値の具体性が捨象された、使用価値をメタ的にとらえる視点から「価値=交換価値」のみを持つ商品と捉えなければならないのではないでしょうか。

もし「他の商品と交換できる」という「使用価値」があったら、その使用価値を手に入れる動機も生まれると思います。つまり、その有用性を手に入れたいと思うはずです。しかし、100円の交換価値を手に入れるために100円を支払うという動機が生まれるでしょうか。すでに手にしている交換価値を改めて手に入れるために交換をすると言うことの必然性を感じません。「他の商品と交換できる」と言うことを使用価値にしてしまうと、このような状況を整合的に説明出来なくなるのではないでしょうか。

使用価値というのは、それを実際に使ったという状況に付随して生じる価値ではなく、商品がすでに持っている属性として、商品に内在している量として捉えなければならないのではないでしょうか。内在している量というレベルで使用価値を捉えると、貨幣にはそれはないと考えなければならないような気がします。

使用価値を内在している量と捉えるのは、それを固定化して数学の応用が出来るようにするためだと思います。状況に応じて発生するような「使用価値」は、数学として扱うことが出来なくなるのではないかと思います。

貨幣には有用性があります。だから人間は貨幣を手に入れたいという強い欲望をもつのでしょう。私にもその欲望はあります。しかし、貨幣をもって貨幣を購うという秀さんの例は奇妙です。100円をもって100円を手に入れるのでは貨幣を手に入れたいという欲望を満たすことはできません。貨幣に対する欲望とは、今もっている以上の貨幣を手に入れたいという欲望です。したがって貨幣を手に入れるためには貨幣でない他の何かをもってしなければなりません。その手段は人さまざまであり、多くの人はそのために労働するでしょう。労働によって直接貨幣を手に入れる人もあれば、何かを生産してそれを売ることによって貨幣を手に入れる人もいます。いずれにせよ、貨幣に有用性つまり貨幣としての使用価値があるからこそ人々は労働し貨幣を手に入れようとするわけです。

ちょっと視点を変えて見てみましょう。商品流通においては卸とか仲買とか小売などとと呼ばれる業種が登場します。これらの業種においては商品本来の使用価値は使用価値として存在していません。そこでは商品は売るために買うという奇妙な存在ですが、このことを奇妙だと思う人はあまりいないでしょう。仲買人や小売業者にとっては購入した(仕入れた)商品は、購入価格(仕入れ価格)よりも高価な価格(売価)で売れるという使用価値をもったものなのです。この人たちにとってこれらの商品の使用価値は商品本来の使用価値そのものではないわけです。そして仕入れた商品の使用価値はそれを購入価格よりも高価な価格で売ることによって実現されるものなのです。

このように物の使用価値は本来の使用価値とは異った形態で現われることもあります。貨幣としての貨幣もそういった商品です。そして、各商品のある一定量の使用価値は、貨幣の使用価値の一定量と交換されるという観点から、貨幣の使用価値はそれと交換可能な商品の使用価値によって間接的に測ることができます。

また、ある一定の時と場所においては一般に同一商品の交換価値とその使用価値とは比例しているという観点からみれば、ある貨幣の使用価値はその交換価値に比例する量として考えられます。したがって貨幣の表示している金額がその貨幣に内在している貨幣としての使用価値の指標であると考えていいと思います。そして貨幣の使用価値は普遍的な交換価値の担い手であるというところにその基礎をもっているわけですから、他の商品と異って交換価値の変化と使用価値の変化とが直接連動していることが貨幣としての貨幣の特殊性でしょう。

交換価値の変化と使用価値の変化とが直接連動しているという意味では、投企対象としての農作物や原油・金などの使用価値も似たようなものかもしれません(流通業者にとっての商品もそうですね)。

〔09.30追記〕

状況に応じて発生するような『使用価値』は、数学として扱うことが出来なくなる」ということに関して。使用価値はある意味では関係概念です。それを使用する人にとっての有用性ですから、当然のことでしょう。「猫に小判」ということわざがいみじくも使用価値のこの性格を示しています。有用性があると思って購入した商品が自分にとってはあまり気に入るものではなかったからそれを友人に譲ったところとても喜んだ、といったことは日常よくあることではないでしょうか。本を枕にして寝るというような本の使用価値だって考えられますし(実際私もたまにはやります)、CDの使用価値などをどうやって客観的に測るのか私には見当もつきません。