ソシュールのいう「価値」(雑文)


〔2006.10.05記〕

ソシュールのいう「価値 valeur」のことを考えていた。というより『一般言語学講義』第II編「共時言語学」第3章「同一性、実在、価値」と第4章「言語価値」を読み返しているのであるが…。もともと私の頭は抽象的な思考向きにはできていないので、ある概念のことを理解するためにはその概念を抽出してきた現実の個別的な存在や現象(私の意識内における存在・現象も現実であり、したがって私が想像のうちに作り出した心像もまた意識内における現実である――とはいえそれらも何らかの形で私の意識外の存在・現象あるいはそれらとの関係を反映している)を自分なりに把握することが必要なのである。つまり、何らかの形で現実とのつながりをもたないものを私は表象することができないし、概念を形成することができない。そして概念を私自ら私の意識内に形成することなしにその概念を理解することは私にはできない。したがって、私にとって何ごとかを分かること・理解することはそれを自ら概念化し把握することである。

というわけで、私にはソシュールのいう「価値」という語の概念が把握できていない。「価値」という語が二つの意義をもつ語として規定されているようでもあり、さらに進んで「意味」をも含んでいるようにも思われる。つまり、交換価値と使用価値とをともに「価値」の名において用いているようでもあり、かつあるときは「「思考言語」内だけの「語」「意味」つまり純粋に文脈的なもの、であるかと思えば現実の「言」表現における語の「意味」であったり(ここには大きな声とか皮肉混じりの表現といった言語規範に媒介されない非言語的な表現のもつ意味も含まれる)と、つかみ所がないのである。

この分かりにくさの第一の原因はソシュールの用語規定の曖昧さであるが、同時に、小林英夫の翻訳のまずさも一因であろうと思われる。あるいは翻訳の元となった「セシュエ、バイイという二人の学生(弟子)がまとめたソシュールの講義録」そのもの(弟子たちの考えがかなり反映されているらしい。端的に言えばそれは「ソシュールの講義を解釈した彼らの創造物」であるらしい)に大きな原因があるのかもしれない。

もう一人の学生がまとめたソシュールの講義録の翻訳(『一般言語学第三回講義 エミール・コンスタンタンによる講義記録 1910−1911年』)も出されているようである。こちらは今日注文したが、届くまではしばらくかかるだろうし、本を読むのが遅い私がそれを読み終わるのは一体いつになるやら分からないが、それまではソシュール「価値」についてあれこれ考えるのはやめておこう。