三浦つとむの認識論・言語論についての私見


〔2006.08.17記〕

三浦つとむはその著書の中で「認識」という語を「対象認識」という狭義の概念としてだけでなく意識(対象意識)をも含む広い概念としても用いている。したがって三浦の認識論は意識論をも含んでいる。そして宮田和保がその著『意識と言語(桜井書店)で指摘しているように、言葉は人間の意識を表現したものであるから、「言語は人間の認識を映し出した鏡である」という三浦の言は「言語は人間の意識を映し出した鏡である」と言い換えるべきであるし、〈対象→認識→表現〉という三浦の言語過程説は〈対象→意識→表現〉とすべきであると私自身も思っている。すでにマルクスは「言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)と言っている。しかし、三浦はマルクスのこの記述を十分承知した上で「認識」という語を用いているのであり、三浦の認識論は意識論(存在論)を含んでいるのである(正直に告白するが、私は三浦の著書を読みながら「認識」と「意識」との弁別に悩んだ、というより私の頭はおそらく混乱していた)。したがって、私は『意識と言語』における「三浦の反映論が認識論的な反映論に留まっている」という旨の宮田の見解には同意することはできない(なお宮田のこの見解については宮田和保『意識と言語』の「まえがき」を参照)。

というわけで、言語とは規範に媒介された意識の表出つまり表現である、というのが三浦つとむの言語規定だと私は判断している。つまり、時枝誠記の詞辞論(主体的表現と客体的表現)を批判・継承した三浦の「主体的表現・客体的表現」の規定は、表現としての言語がそのうちに意識及び対象意識の構造を映し出しているということの学的表現であり、客体的表現の背後にそれと結びついた概念を認識している意識主体の存在を、そして主体的表現の背後にそれと結びついた概念として意識主体および自己を認識している表現主体の存在を映し出しているということの端的な表現であると私は認識している。大雑把にいえば客体的表現も主体的表現も対象意識における客体を言語として表現したものであるが、前者は意識に映った対象が概念化されたもの(の表現)であるのに対して、後者は意識における主体の観念的自己分裂・復帰過程における主体の立場や意志・判断・感情…がそれ自体として即自的に概念化されたもの(の表現)である。

主体の立場や意志・判断・感情…が自己内反省されて、つまり自覚的に明瞭に客体化され対自的に概念化されるなら、それは観念的自己分裂(意識の自己運動)として把握される。そこでは表現主体や意識主体は「私」「自己」…等々のように対自的に概念化されており、感情もまた「喜び」「悲しみ」あるいは「うれしい」「驚い」等々のように対自的に概念化されている。意志や判断…も同様に「〜の意志」「〜の判断」「〜の推定」「〜の認識」…等々として対自的に概念化される。そして、それらは言語表現においては客体的表現として現われる。

したがって、客体的表現とは対象が意識において対他的・対自的に把握され概念化されたものの表現であり、主体的表現とは主体の立場や意志・判断・感情…つまり主観が意識において対他的存在として即自的に把握され概念化されたものの表現であるといってよいのではないかと思う。

〔注記〕

宮田和保の『意識と言語』について書かれたものとして、深草周さんの「『意識と言語』の感想」(2006年8月1日)がある。私も簡単な紹介と読後感を『ことば掲示板』(No.228, No.229)に書いたがこちらは単なる作文である。