認識・意識が言語にとらわれるということの意味


〔2006.08.18記〕

前稿「三浦つとむの認識論・言語論についての私見」の内容に関しておっちゃん(敬称略)から次のようなコメント(改行位置を変更)を戴いた。


コメント:2006/08/18 言語と意識

認識(あるいは意識)が言語に囚われる(捉えられる)ということもありそうですね。これは規範(言語規範)の獲得とは異なるレベルの問題だと思うのですがそのあたりはいかがでしょう?

「主体的表現」と「客体的表現」の隙間にこれが入り込む可能性(とその意味)についてです。(2006/08/18 金 01:47:03 | おっちゃん)

おっちゃんと話を交わすのは初めてではない…、と思う(かつておっちゃんの掲示板にも書き込んだことがあるので。しかしかなり昔のことで内容もこういう種類のものではなかったし、記憶をたどってみたが思い出せない)。そんなわけで、一応旧知の間柄であるからこの稿は少し趣向を変えて以下敬体に切り替え、掲示板モード(対話モード)で書いてみる。

上のご指摘は、かつてよく聞いた「人間は言語に住まわれている」という主張とは観点が違いますね。表現者としての実体験から生れた疑問であろうと推察致します。このジレンマというか矛盾は言語表現に限らず表現一般についてまわるのではないでしょうか。しかし、言語表現は他の表現と異ってあくまでも対他的あるいは対自的ないし即自的な個別概念として把握された人間の個別的な対象認識ないし対象意識言語規範に媒介された一般的な概念と結びついた言葉として表現するしかないという短所(これは裏返すと他の表現にはない長所でもある)をもっています。したがって、表現された言語は表現した者の認識ないし意識の忠実なコピーではありえません。これは人間の認識が対象の忠実なコピーではないということとはまた違った意味を持っています。

このような言語表現の性格から言語表現を受容する際には、受容者にもそれなりの努力が要求されます。一般に文章の読解とよばれるものですが、これは単純によく読めばあるいはよく聞けば理解できるといったものではありません。三浦や時枝が指摘しているように表現された言語はその背後に〈対象→認識(意識)→表現〉という過程的構造を隠しもっているものですから、受容者にはその過程をできるだけたどる形で表現者の表現過程やその立場を追体験することが求められます。

対話の場合には言語をやりとりする過程で相互の追体験が比較的スムーズになされますが、これも双者がお互いに相手のことを理解しようという意志をもって対話を行わなければ叶わぬことです。また表現者にも、相手に理解しやすいように相手の立場に立って先行的に追体験を行ないながら表現をすることが求められるわけです。

さてこのようにして表現された言語は、逆に表現した者の意識や認識にも還って来るものです。実際、言語表現はその過程で表現者自身による追体験が繰り返し行われます。つまり、音声言語においては発語された言葉を自分の耳で聞いてその意味をあらためて反省するといったことが行われますし、書き言葉においては推敲というきちんと自覚された形でももちろんのこと、書いている最中にも相手の立場に立った追体験が多かれ少なかれ行われています。

表現者自身によるこのような追体験表現者自身の認識や意識に変容をもたらすことは疑う余地がありません。ですから表現する以前と表現した以後とで、表現した者の認識や意識が変わることは不思議でも何でもないことです。私が繰り返し書いている「言語と意識とは互いに作りあっている」というのはこのことです(他者の表現を追体験する過程でも当然認識や意識の変容は起こります)。

さて、主観と客観とはともに相対的なものです。この二者は厳密に区別すべきものでありながら、意識の内部では互いに浸透しあっています。そして客体的表現は客観が表現されたものであり、主体的表現は主観が表現されたものです。客観は主体が作り出したものであり、主観は言語化される過程で客体化されます。したがって、表現において客観がいかに客観的なものになるか、主観がどの程度忠実に客観化されるかは表現者の現実的・理論的な実践にかかってきます。それは現実(表現者の意識内部で起こっていることも現実に含まれます)と意識との相互の浸透を内包した上り下りの実践ですから、その実践の過程とその結果、表現者の認識や意識が大いに変容する可能性を孕んでいます。

そういうわけで、おっちゃんのご指摘をちゃんと把握してのお答えかどうか自信はありませんが私なりにおっちゃんのご指摘を読み取っての回答です。誤読の可能性はあると思っています。

もしご返事が戴けるのなら、この稿のコメント欄でも、また私の掲示板『濫觴』でも構いません。あるいはおっちゃんの掲示板でもよろしいかと思います。