三浦つとむ「漢字と振り仮名」

〔2006.12.10記〕

三浦つとむの論考は私たちにとってごく身近なものごとを取り上げるときにも、論理的で筋が通っている。そして経験を通して蓄積された普通の人々の直観を裏切らない論理の曇りのなさがその魅力の一つだと私は思う。しかし、その内容は深いのであって数年、数十年経って自分の経験がさらに積み重ねられた後になってあらためて読み返すと再び三度新たな発見をさせられるといった類いのものである。しかし、そのことは同時に、読む者はその人なりの理解しか与えられないという意味で、その弁証法的(論理的)思考のレベルが試されるということでもある。

三浦つとむ「漢字と振り仮名」(『言語学記号学勁草書房、p.223)


   漢字と振り仮名

 エジプトの象形文字や中国の漢字が教えているように、文字言語は絵画から転化発展したものだが、音声言語と関係づけられることによって瞬間的に消滅する言語を記録保存することができるようになった。この音声言語と文字言語との関係づけは、言語規範による語と語との関係で、その点では表意文字の場合も表音文字の場合も変りがない。ところが、表音文字を組合わせた文字言語では、語全体として音声言語に関係づけられているだけでなく、その部分である個々の文字がさらに音声言語の部分である個々の音韻に関係づけられていて、二重の関係を持っている。この二重性を正しく把握できないで表音文字と音韻との関係に目を奪われると表意文字表音文字とはまったく異質の存在であるかのように思われてくる。文字どおりには発音されないで、文字と音韻とが乖離している場合がすくなくなくなくても、なぜそれが差支えないのかを考えず、語と語との関係では表意文字表音文字とが同じ意味のものとして扱われ、前者と後者で相互におき換えられていても、なぜそのおき換えが可能であるかを理論的に反省しようとはしなくなる。

 「文化」ということばの背後には、文字による人間生活の飛躍がとらえられているのだが,現在の言語学者は必ずしもこのような観点で文字言語を理解しようとはしていない。わが国では、大陸から高度に発達した表音文字が伝来することによって、読み書きという言語活動が誕生したし、われわれの祖先は二種類の表音文字を創造して漢字・平仮名・片仮名を混用する言語生活を行うようになったのだが、これらも正当に評価されているとは思われない。

 私が言語に関心を持つようになった理由はいろいろあるのだが、その一つに文字言語が奇妙な性格を持っていることの自覚がある。TV映画の『セサミ・ストリート』にもABCを記したカードをならべて語を組立てる場面が出てくるが、私の小学生のころには菓子屋で売っている英字ビスケットをならべて遊んだことがあった。これは悪友の発案で、当時ターザンを演じた ELMO LINCOLN や、連続活劇の女王 PEARL WHITE などの名を綴って読みっこをしたのだが、スクリーンの字幕の文字は影であるからつかむことも食べることもできないのに、英字ビスケットはつかむことも食べることもできるというちがいが、私の頭にひっかかっていた。素材の性質はまったくちがっているのに、同じ意味を持っているからである。のちに大人になって、マルクス経済学の価値論に接したとき、性質のちがった二つの物が等しいとして扱われるのは、ある共通者がそれらの物のうちに実存するからだ、という説明があった。そこでかつての英字ビスケットのことを思い出したのである。このマルクスの論理の把握は、商品の交換だけでなく、ある素材を担い手にする言語表現を他の異った素材を担い手にする言語表現におき換えて複製する場合にも、妥当するのではないかと気づいたのである。見たところ何の共通点も存在していない音声と漢字や光の文字と食べられる文字との間にも、目に見えない言語表現としての共通点があるのではないかと考えたのである。

 ソシュール言語学を読んでみたら、文字は音声の複写でしかないという理由で言語学の対象から追放していたが、右のように考えていた私には何の説得力もなかった。音声と文字との間に共通点があるからこそおき換えられるのであり、当然言語学の対象になるべきである。ソシュールの主張は、スクリーンの文字は紙に書いた文字の複写でしかないという理由で文字論の対象から追放するようなもので、表現の担い手である素材のちがいにひきずられた誤謬だとしか思えなかった。

 素材のちがいは意味のちがいにならないとすれば、何のちがいが意味のちがいになるのだろうか? 「木」にもう一本線を加えて「本」にすると意味がちがってくるから、形のちがいが意味のちがいになるようにも思われる。しかし、同じ漢字を楷書で書いても草書で書いても意味はちがわないから、単なるかたちのちがいではないこともたしかである。とどのつまり、そのかたちが一つの種類として共通しているときに意味が同じで、種類としての限界を外れるときに意味がちがってくるのだと気がついた。表現はすべての人間の認識の物質的な映像であって、その担い手である実体と区別しなければならない。スクリーンのEやLとビスケットのEやLは、素材がちがいかたちがちがっても、同じ種類に属するから、共通した性質を持つ映像として相互におき換えることができるわけである。言語学は言語についての一般的な法則を明らかにする学問のはずであるが、他の人間の言語表現を別の人間が別の音声で複製する、伝言という周知の事実すら理論的に明らかにできない状態であって、文字から文字への複製の検討などはどこにも見当らない。ソシュールは、性質のちがった表現それ自体に共通者を見出そうとせず、共通者を表現以前の単位と解釈するところにふみはずしたが、私が同じようにふみはずさないで言語表現に差異と共通性とを統一してとらえることができたのは、『資本論』のおかげであった。

 もう一つ頭にひっかかっていたのは、冬休みの宿題になっている正月の書初めのことであった。「一年の計は元旦にあり」「元朝の見るものにせん富士の山」など、金言・名句を書かされるのだが、これに能筆もあれば悪筆もある。私は身をいれて練習しなかったから、能筆とはいえなかったが、悪筆といわれるほどではなかった。〈悪筆は一生の損〉とは教師の口ぐせで、少年雑誌の講義録の広告でもおなじみのことばであったが、読むほうに熱中して書くことに時間を割く気もちにはなれなかったのである。けれども同じ文字言語に関係した問題でありながら、名文か悪文かということと能筆か悪筆かということとは別の問題であることが気になった。名文の悪筆もあれば、悪文の名筆もあるというのが、否定できぬ事実だったからである。これもやはり『資本論』のおかげで、英字ビスケットの問題と同じように、対立物の統一すなわち矛盾としてとらえるべきものだとわかった。名文か悪文かは言語表現の問題であるのに対して、能筆か悪筆かは非言語表現いわば絵画的表現の問題であり、言語は言語表現と非言語表現との対立物の統一として、二つの異った表現は相対的に独立したものとして、理解すべきものだとわかった。そして、国語学者の古典を解読する能力や言語学者の言語的能力に感心しながらも、それらの学者の著書にこのような問題の説明が見当らないことに、論理的に思惟する能力の欠如を感じないわけにはいかなかった。

 言語には言語表現と非言語表現との矛盾だけでなく、他にも矛盾がウヨウヨしている。言語における諸矛盾についての理解は、科学的な矛盾論を展開するのにも役立つのである。ところが大多数の言語学者は、言語一般における諸矛盾を正しく把握しようとはしないで、日本語における特殊な矛盾を異常な不合理なものと受けとっている。これは、矛盾とは異常で不合理的なありかたで、できるだけ早く解消させなければならないものだという、形而上学的な常識にとらわれていて、そこから抜け出すことができないからである。日本語の文字言語が、表意文字表音文字とを混用した漢字仮名まじり文という形態をとっているのは、一つの矛盾であり、出版物が四〜五世紀にわたって漢字に振り仮名を加える方法を採用して来たのも、一つの矛盾である。これらの合理性を正しく理解するには、科学的な矛盾論が必要であって、ヨーロッパの言語学形而上学的発想からすれば、奇妙な現象としか思われない。

 振り仮名は大きくわけて二種類になる。一つは、仮名を発音記号として加えるやりかたで、これが本来の使いかたである。いま一つは、仮名を文字言語として加えるやりかたで、これは派生的な使いかたである。

 読みにくい文字に仮名を加えて発音を示す例としては、「饂飩(うどん)」「蕎麦(そば)」「蒟蒻(こんにゃく)」「鋸(のこぎり)」「鍬(くは)」「松明(たいまつ)」「旅籠(はたご)」「欠伸(あくび)」などがある。一般的な読みかたではなく、その筆者が自己流の読みかたを指定した、「心(むね)」「下女(おさん)」「台所(かつて)」「浪費(つかひすぎ)」「帰宅(かへり)広告「連坐(まきぞへ)」「薄幸(ふしあはせ)」「水泡(むだ)」などもある。外国語が日本語化している場合には、「洋燈(らんぷ)」「燐寸(まつち)」「石鹸(しやぼん)」のように平仮名を使い、翻訳などで原語の発音を示す場合には、「連辞(サンタグマティク)」「静思(ナハデンケン)」「階層組織(ヒエラルヒー)」などのように片仮名を使う。歌舞伎の外題では、「男山娘源治(おとこやまふりそでげんじ)」「雪梅顔見勢(むらのはなむめのかほみせ)」「青砥稿花紅彩画(あおとぎうしはなのにしきゑ)」のように五七音の読みかたが指定されていた。昭和になると、仮名を文字言語として加えて、「菊池寛(おおごしょ)」「淡谷のり子(ブルースのじょおう)」のように、表現を立体化する工夫もあらわれた。最近では図のような広告が週刊誌にのっている。

 ルビつきの活字が教育にどんな役割を果たしたかは、吉屋信子の『木歩忌五十年に思う』が端的に語っている。


「木歩は本名冨田一、明治三十年四月向島小梅町の鰻かばやき業の家に生れ、二歳で発病、身体障害児で学齢に達しても就学せず、当時の『いろはかるた』などで文字を覚え、二人の姉が教師だった。巌谷小波おとぎばなし少年雑誌も読めるようになり、その頃の活字がルビつきのおかげでむつかしい漢字も読みおぼえて十七文字の俳句をおぼろげに知った。」

 戦前の左翼の雑誌『戦旗』も、芸術を中心とする文化的大衆雑誌のころにはまったくルビがなかったが、次第に啓蒙的大衆雑誌に変って多くの部分がルビつきになっていった。小学校にさえ満足に行けなかった人間が、すぐれた作家や学者になりえた理由の一つは、このルビつき活字の存在だったのである。専門書にも、岩波文庫にも、漢字に振り仮名はついていない。しかし大衆的な出版物は、少年少女雑誌はもちろんのこと、小学校の国定教科書でも振り仮名を使っていた。一年生の修身書では〈固有名詞〉を「キグチコヘイ」のように片仮名で記し、二年生の修身書では「廣瀬武夫(ヒロセタケヲ)」のように本文と同じ片仮名をつけ、三年生の修身書になると「二宮金次郎(にのみやきんじろう)」のように本文と同じ平仮名をつけていたし、国語の教科書に出てこない漢字を使う場合にも、やはり振り仮名をつけてあった。このように、小学生のときから振り仮名で漢字の読みかたを覚えた私たちは、専門書や岩波文庫の古典などを片っぱしから読むことができたのであった。

 日本人にとって漢字の渡来は単なる文字の渡来ではなく、諸概念諸イデオロギーの渡来であり、いわば漢字文化の渡来であった。これが、音声だけではどんな意味か明らかでなく、どういう字を書くのかと考えたり問いかえしたりするという、音声言語の発展の立ちおくれをもたらすことにもなり、学問の新しい諸概念をつぎつぎと漢字で造語していくことにもなった。日本語から漢字を追放しようとするなら、この日本文化として発展して来た漢字文化を根こそぎ変革しなければならないし、そのための諸条件をどうととのえるかを検討しながら、完全な追放が可能なのかどうか理論的に考えなければならない。言語としての性格はもちろんのこと、漢字が現実に果している文化的諸条件も検討しなければならないのであって、言語の性格がちがい文化的諸条件もちがう国々がローマ字化を行ったことを、そのまま日本でのローマ字化の例証に持ち出すことはできないはずである。ところが多くの学者は、文字言語は表意文字から表音文字へ、〈音素〉文字へと進化するのが歴史的必然だという信念から、漢字を古い文化の遺物と断じ、日本人が中国から輸入した漢字をいまもって使っているのは先進国として恥ずべきことだと思っている。漢字仮名まじり文の持つ合理性を、日本における漢字文化の独自の発展および日本語の独自の性格において理解しようとはせずに、ただ異常な過渡的な存在と受けとって、ローマ字あるいは仮名文字化を理想とし、一日も早くこんな異常な状態から脱け出さねばならぬと焦っている。このような漢字コンプレックスないし表音文字フェティシズムからすれば、西欧の社会科学用語が日常語から転用されているのに日本では日常語から遊離した漢字の造語であることも、「日本語をおいてきぼりにして社会科学が発展してきた」(内田義彦)と、日本語から遊離しているかのように解釈されることになる。また大衆を漢字文化に導き入れる方法としてのルビつき活字にしても、その有用性を事実として認めながら、その反証として表音文字への歴史的発展を阻害し漢字の寿命をひきのばす短所があると見て、このほうがさらに重大な問題だということになる。

 こうして、漢字を読みやすくするために振り仮名を加えるのは、欧米にも例のない文字言語の二重表現であるばかりでなく、封建社会の残存物である漢字の延命に役立つ反動的な行為であって、このような方法が一般化しているのは文化的国辱だという「進歩的」主張が生れた。一九三八年に山本有三は『戦争と二人の婦人』のあとがきで振り仮名廃止を提唱した。ルビの必要なむづかしい漢字は別のことばに変えたり仮名書きにしたりすべきだというのが、進歩的な人びとの主張となった。戦後の国語改革が「当用漢字」や「人名漢字」を内閣告示で具体化したときにも、それらの人びとはこれを支持して、反対意見を持つ人びとを保守反動として扱った。大人の読みものからルビは姿を消して、戦前と同じように総ルビの本や雑誌をつくっていたのは、戦前に中学校や女学校に行けなかった大衆を対象として思想運動を展開する、新興宗教の教団であった。

 言語の性格がちがえば教育のための文字言語のありかたや練習のしかたもちがってくる。ロシア語では、単語の中のアクセントのある音節、その前の音節、その後の音節が、それぞれ発音がちがってくる。それで教科書の文章にはアクセント記号がついているし、筆記の練習のときにも語にアクセント記号をつけて書くように指示している。日本の学校で、試験問題に漢字の読みかたが出るのも、日本語の特殊性から来たものであって、教育のために漢字に振り仮名をつけたり、筆記の練習のときに振り仮名をつけたりしても、別に不思議はなく、まったく合理的なのである。

 日本語の表音文字である仮名は、音響学的な音の模写ではなく音韻を写したものであるが、これがまた音の模写にも使われていて、形式主義者にいっしょくたにされやすい。擬声語の「ごろごろ」「さらさら」などは文字言語であるが、音を模写しただけの「グォーッ」「ガッターン」などは言語ではない。英語でもいびきを “ZZZZ” と表現したり、モーターボートのエンジンを “PUT-PUT-PRRRR!” と表現したり、音の模写が行われている。「平和」という語彙は、まず音声言語が存在して、それを文字に写したのではない。その逆である。まず漢字の組合わせとして成立した熟語である。それゆえ音声で表現するときは、それぞれの文字の読みかたに従うし、仮名書きするときにも、「へい」と「わ」であるから「へいわ」と書く。「経営」や「訪欧」も同じで、「けいえい」「ほうおう」と書く。ところが、ヨーロッパの言語学の解釈に盲従して文字は音声の模写であるという発想をここに押しつけ、発音通りに書いてよいという原則を立てると、「へえわ」「けえええ」「ほおおお」と書いてさしつかえないことになり、さらには「へーわ」「けーえー」「ほーーー」と書くべきだということになりかねない。江戸っ子が「朝日新聞」を「あさししんぶん」と書いても、東北人が「お寿司」を「おすす」と書いてもよいということになりかねない。現に、教科研文法の信奉者である無着成恭は、「平和」を「へいわ」と書くことは発音と異るから不合理だと反対している。小説の中の登場人物の会話を、発音通りに綴っているのは、その人物の口調を示すための模写であって、それにはそれなりの合理性がある。漱石の『道草』にも、「それで姉さんの話つてえな、一体どんな話なんです。」というような会話の表現があるし、雑誌にのったディズニー漫画のグーフィーも、“WHATCHA DOIN; ANYWAY” とか語っている。けれどもこれらは規範で定められた文字表現ではない。ことばのなまり方言とは別であり、なまりは規範と無関係であるが、方言にはそれなりの規範がある。東京なまりや東北なまりをその通りに模写することは、その人物の口調を示すために有効であっても、これを文字言語の原則にするわけにはいかない。

 文字言語は発音記号ではなくて言語である。語の書きかたや文字の読みかたは規範で定められている。日本語では「忠義」の文字を、〈名詞〉のときは「ちゅうぎ」、〈固有名詞〉のときには「ただよし」と発音しているし、英語では同じ発音でありながら、〈名詞〉のときには eye、〈代名詞〉の場合には I と記している。through という単語を文字通り忠実に発音しているわけでもない。これらはすべて規範の規定に従っているという点で、合理的なのである。言語規範の問題を無視して、音声と文字を直結するところに、発音通りに書いてよいとか「へいわ」と書くのは発音と異るから不合理だとか、一見もっともらしい主張が出てくるのである。

 (註) 一九七三年二月に書かれたもの。『試行』38号(一九七三年)六月に掲載した『日本語の表現構造』の中に縮小して入れられた。