三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(4)

〔2006.12.10記〕

以下に引用する三浦つとむの論文では観念的自己分裂について言及されている。観念的自己分裂論は言語過程説にとって根本的な柱となる理論であるから詳しくは三浦つとむの著書に当っていただきたい(『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)が分かりやすい。より理論的な論考としては『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房)が詳しい)が、このブログ内にも断片的ながら観念的自己分裂について書いたものがある(カテゴリー「観念的自己分裂」あるいはタグ「観念的自己分裂」)。また、簡潔にして要を得たものとして深草周さんがお書きになった「三浦つとむの主体的言語論」がある。これは発表「三浦つとむの主体的言語論」(2006年7月11日)に掲載されたレジュメであるが、このレジュメの前半部が三浦つとむの観念的自己分裂論の要約になっている。

時枝誠記の言語過程説」(『言語学記号学』p.198)


   時枝理論はなぜ難解といわれるか

 時枝理論は「難解」だという定評がある。ソシュール理論に徹底的に反対するものとして、小林英夫はオグデン=リチャーズの『意味の意味』と時枝の『国語学原論』をあげ、「いずれおとらず難解であって、批判力の養われないうちにひもとくことわ、好ましくない。」(小林英夫『言語学通論』一九四七年、226頁)と書いている。誤謬のとりこになるぞ、という警告である。けれどもこの二書は難解な点で同じでも、難解の理由はかなりちがっている。オグデン=リチャーズは対象を処理しかねてあちらこちらで混乱しているので、難解の責任は筆者の側にあるのだが、時枝はふみはずしがあるとはいえ本質をかなりよくつかんでいるので、難解の責任はむしろ読者の側にあるといってもいいすぎではない。別のいいかたをすれば、時枝理論を一応正しく理解してその弱点をもある程度訂正できるくらいの能力がないと、言語学で創造的な仕事をすることはおぼつかないのである。

 従来の言語学では、言語における「立場」などというものを論じたことがない。それゆえ時枝が、「主体的立場」と「観察的立場」との識別は極めて重要な問題だと強調しているのを読んで、首をひねって難解だとつぶやいた人も多かったであろう。むりもないことである。


「言語を行為し、実践する立場を、主体的立場といひ、言語を観察し研究する立場を、観察的立場といふ…」(『国語学原論・続篇』5頁)


          ┌ 一 主体的立場――理解、表現、鑑賞、価値判断
「言語に対する立場 ┤
          └ 二 観察的立場――観察、分析、記述

言語に対する一切の事実即ち日常の言語の実践より始めて、言語の教育、言語の政策及び言語の研究等は、凡てこの二の立場を明かに識別することから始められねばならない。先ず最初に、言語の具体的実践が、主体的な表現行為であつて、それ以外のものでないといふことは、極めて重要なことである。」(『国語学原論』23頁)

 この二の立場がなぜ区別されなければならないか、どんな過程で成立するかの、理論的解明はない。それはこの立場論が、古典解釈の実践から経験的にひき出されたからである。「解釈は即ち文字を話手の思想に還元することであり、表現過程を逆に辿ることであると考へ」(『国語学への道』77頁)「言語の観察者が古代人の言語体験を追体験することに他ならない。」(『国語学原論』14〜5頁)と考えて、この追体験する立場とそうでない立場とを区別する必要を認めたからである。ところで古代人の和歌や日記などノン・フィクションの文章にしても、書き手の言語体験はとっくの昔に消滅してしまっているのであるから、その表現過程を逆に辿って追体験するということは観念的にしかなしえない。漱石の『吾輩は猫である』がフィクションであることはいうまでもないが、漱石の言語体験は漱石としての立場ではなく「猫」の立場でなされているのであるから、読者の追体験も同じように「猫」の立場ですすめなければならないことになる。漱石がそして読者が「猫」の立場になったとしても、それは観念的なことであって、漱石も読者も依然現実的には人間である。それゆえ時枝のいう「主体的立場」とは、人間が観念的な自己分裂においてつくり出したところの、現実的な自己と区別されるべき観念的な自己のありかたにほかならない*。「猫」の立場では、苦沙弥先生は存在するが夏目漱石は存在しないし、現実的な読者の立場では、夏目漱石は存在するが猫も苦沙弥先生も空想的な存在でしかない。この二の立場を正しく識別しなければならないと強調するのは、当然すぎるほど当然である。しかしながら、時枝が「言語主体」とか「主体的な表現行為」とかいう場合の「主体」は「話す人」で「哲学の問題とは、全く無縁な、常識的な考へ方に過ぎない」(『国語学への道』101頁)にもかかわらず、「主体的立場」という場合の「主体」はフィヒテ的観念論の自我に相当すべきものであって、哲学的に・正しくいうならば認識論的に・説明しなければならないのである。常識的な考えかたの主体と常識では処理できない特殊な主体とが、同じことばで、しかもその成立過程の解明なしに問題にされているのであるから、読者がこの両者を混同してしまって、難解だとなげいたり観念論だと非難したりすることにもなったわけである。

 右の引用にもあるように、時枝は表現も理解もどちらも「主体的立場」だと説明している。けれども野球の実況放送のように、話し手が目の前に存在している事物を観察して表現する場合もあれば、ポオの小説『黒猫』のように、空想の世界の話し手が一人称で物語を展開する場合もあって、前者は現実に「観察的立場」で表現するが、後者は観念的な自己分裂によって観念的な自己が空想の世界の話し手にならなければならない。しかも、この現実には主体的立場をとっている話し手が空想の世界の中では黒猫に対して観察的立場をとっているという対立物の直接的な統一すなわち矛盾が存在する。そして聞き手や読み手のほうは、話し手が「観察的立場」で実況を語っていようと、書き手が主体的立場で空想を述べていようと、いずれの場合でも観念的な自己分裂なしには追体験することができないのである。時枝は、理解がすべて「主体的立場」でなされるという正しい理解から、表現もすべて「主体的立場」でなされれるかのように不当に拡大解釈してしまった。これでは読者が難解だとなげくのも当然である。

 従来の言語学に欠けていた重要な部分を補って、本来なら創造的な仕事として評価されるべき主張が、難解として無視されあるいは誤謬として非難されている事実は、まだほかにも指摘することができる。零記号(ぜろきごう)もその一つである。零記号というのは、いわば表現の省略であって、辞でも詞でも想定しうるが、辞の場合には判断辞の省略として(が零記号を表わしている――引用者注)

ね。              (A)
ですね。             (B)
■ね。              (C)

のようになり、「詞の零記号になる場合は、それが省略されても自明のこととして理解される様な場合である。」(『国語学原論』264頁)

この花を折ったのはおまえだろう。  (D)
■じゃないよ。           (E)

 表現に際して判断が存在したことは疑いないから、Cのような判断辞のない場合をどう説明するかが問題になる。山田孝雄のようにどれかの単語に負わせないと気のすまない学者は

人がいる■。            (F)

のように客体的表現にとどまっている場合にも、「いる」が陳述を表現していると解釈する。別のことばでいうと、内容と形式とをむりやりに一致させようとする。時枝の零記号は、内容と形式との間に矛盾が存在することを認め、乖離しうることを認めるものにほかならない。時枝は一方では論理的な結論として、「言語は宛も思想を導く水道管の様なものであつて、形式のみあつて全く無内容のものと考へられる。」(同上、53頁)といいながら、他方では経験的に事実上内容と形式との矛盾を扱っているのである。漫画の主人公の鼻に鼻孔が描いてなくても、読者はこの主人公には鼻孔がないのだとか、作者が鼻孔のない鼻を想定しているのだとか、考えることはない。だが同じ客体的表現であっても、EをDと切りはなしてこれだけをとらえ、零記号の部分は認識が存在しないものとして無視する者が多い。ましてCの場合にあっては、時枝さえはじめこれを無視してしまって、「敬辞の加つたものから逆推して」(同上、493頁)いって(つまりBを検討することによって)はじめてこれを想定したのである**

 この時枝のはじめのふみはずしにも、やはりそれなりの理由があった。言語哲学はもちろんのこと哲学に本質的な指導原理を仰ごうとしなかった(これは見識の高さを示すものである)時枝も、精神的過程を具体的に検討する必要に迫られて、その意味で現象学(Phänomenologie)の援助を求めたのであった。これは一方において、過程的構造の弁証法的な性格をとらえることに役立ったけれども、同時に他方においては、観念論的な見解のために足をひっぱられて理論の展開を阻止されることとなった。過程的構造を平面的につかむようしむけられることとなった。否定や疑問は、まず一つの想像的な世界をつくり出してから、現実の世界に立ち戻って否定したり疑ったりするのであって、そこでは世界が二重化しており、否定辞や疑問辞以外に想像の世界での「主体的立場」を表現する判断辞ないし単純な陳述を必要とするのである。現象学ではこの世界の二重化を観念論の立場から無視し一重化してしまうので、否定辞や疑問辞も「単純な陳述の変態と考えるのが正しい」(『国語学原論』390頁)ことになり、立場の表現の二重性もこれまた一重化されることになる。そしてCの場合の主体的表現が、判断辞と感情表現と二重化されているにもかかわらず、このような場合の感動表現は「客体的なものの表現の最後に位して、客体的なものを包む形において統一を表してゐる。」(同上、252頁)と、これを「客体界に対する言語主体の総括機能の表現」(同上、239頁)にして一重化したのであった。

 彫刻とは何かといえば、誰でも作品それ自体だと答えるであろう。作品以前に、作者の頭の中に彫刻とよばれるものが存在するなどと主張する者はない。彫刻の素材は何かといえば、誰でも木とか粘土とか大理石とか答えるであろう。作者の頭の中に彫刻の素材が存在するなどと主張する者はない。言語にしても同様であって、過程的構造をかくし持った音声や文字が言語であり、それ以外に言語は存在しない。言語の素材は空気やインクなのである。それにもかかわらず、言語それ自体が表現の素材ないし道具として、表現以前にすでに頭の中や辞書の中に与えられていると考えている人びとが、言語学者にも文学者にもすくなくない。この錯覚にも、やはりそれなりの理由がある。空気やインクが与えられるだけでは言語表現は不可能なのであって、表現以前に表現のための規範が与えられこれが作者の概念を媒介する点に、言語表現の特徴がある。この言語規範を言語と混同するところに、言語が表現以前の頭の中に存在するという主張が出てくるのである。時枝はソシュール言語学を批判して。話し手たちの頭の中に「言語」(langue)が貯蔵されるという説明に反対した。このソシュール批判も難解に見えるであろうし、批判を不当だと見る学者も多いが、実は逆で不十分だと見るのが正しい。なぜなら時枝は、ソシュールの「言語」を否認するだけで、その正体を明かにすることができなかったからである。「言語」なるものは、実は言語規範およびそれに媒介される概念のありかたを、カント的に歪めたかたちでつかんだものにすぎないのだということを、正しく指摘できなかったからである。これは時枝が言語規範についての正しい理解を欠いていたためであり、言語の過程的構造の図解(同上、91頁)にも言語規範の媒介過程は脱落している。

 言語の本質を過程的構造に求める時枝理論では、単語の分類の基準を過程的構造からひき出すだけでなく、単語によって構成されている言語表現の統一体の分類の基準もこれまた過程的構造からひき出すことになる。「文章」という概念は常識的に広く用いられているし、修辞学においてはこの種の言語表現が見当の対象になっているのだが、言語学として「文」と「文章」との区別を論じているものはほとんどない。時枝は「文章を一の言語的単位として、これを正面の対象に据ゑる」(『日本文法・口語篇』23頁)べきだといい、「文章のことは、修辞論に属することで、科学的な言語研究の対象とするに値しないもののやうに考へることは正しいことではない***。」(同上、24頁)と主張するのである。また、表現以前に表現の素材としての言語が存在するという考えかたに反対して、表現それ自体が言語であると主張する時枝理論では、文学とは言語以外の何ものでもなく、観賞用言語であるという点で特殊性を持つにすぎないという結論をひき出すのである。


「言語を、個人の機能とは別に、個人に外在するものとする言語観に立って、言語は文学であるといふことは不可能である。言語を表現理解の行為とする言語過程観に立って、始めて、文学は言語であるといふことが云へるのであつて、ソシュール的言語観に立つならば、文学は、依然として言語とは別のものである。」(『国語学原論・続篇』103頁)


「文学と言語との関係は、これを、芸術的な建築や調度品と、さうではない日常的な建築や調度品との関係に比べることが出来る。芸術的な住宅や寺院や机や茶碗といへども、その本質において、日常的な住居や器具と異なるものではない。ただ、我々は、前者において、快と喜びとを感じ、後者において、それが少いといふだけの相違である。即ち、前者がより多くの美的享受の対象となり、鑑賞に堪へるものを持つてゐる点において異なる。」(同上、104頁)

 時枝の文章論も文学論も、その基本的な主張は正当である。ただこの主張を体系的な理論に具体化していくためには、対象を処理するための武器として科学的な認識論・論理学を持つことがどうしても必要になる。現象学の援助を受けていたのでは、武器として役立たないだけでなくあやまった道にひきずりこまれることにもなる。時枝は文章論でも文学論でも重要な発言をしているのだが、それは断片的な指摘にとどまっていて、まだ体系的な理論にはなっていない。


* 観念的な自己分裂についての詳細な説明は、三浦つとむ『認識と言語の理論』22頁以下参照。これは認識における矛盾の発展であって、中国的にいえば一分為二の一つの形態であるが、マルクス主義の教科書類は従来この矛盾をまったく無視していた。

** 『国語学原論』の中の零記号の扱いかたが、文法論のそれ(348〜52頁)とはくいちがっている点に注意すべきである。

*** 常識的に文章とよばれるものは多くの文の集まったものであるが、それらがバラバラではなく背後でむすびついているのだということも、経験を反省してみれば納得できるはずである。それゆえ文と文章とを区別する基準も、このむすびつきの中に、統一体をつくりあげている過程的構造の中に、求めなければならないという結論が出てくる。そこで主題言語学上の問題になってくる。

 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)

 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(5)