ソシュール「言語学」とは何か(3)

〔2006.11.21記〕

前稿「ソシュール「言語学」とは何か(2)」で書いたようにソシュール「言語langue」は矛盾した存在である。「言語langue」は時間的・地理的に限定された一定の地域における一つの制度として規定される。それは静的(statique)なものであり、外部から遮断された存在である。その意味で「言語langue」は仮構されたものであるといっていい。しかし、前稿の引用部に『言語学の領域で、かなり広い意味で共通領域と呼べるところは、分節あるいは「分肢」の領域である。それは、思考がそのなかで音をとおして意識を得るにいたるような肢体の諸部分をいう』とあるように、ソシュール意識における思考の場つまりいわゆる思考言語(ただし、それは仮構された「言語langue」に媒介される限りでの思考言語である――ソシュールは表向きでは外部からもたらされる新しいものを排除している)をも「言語langue」の領域に引き入れている。

「言語langue」の性格を分析するためには何らかの「言語」的実践の観察が必要であるから、「言parole」から隔離された領域として思考の場「言語langue」に組み込まねばならなかったのは、ソシュールにとっては必然であったろう。したがって、「ソシュール「言語学」とは何か(1)」で書いたように「言語langue」は純粋に仮構されたものにとどまる訳にはいかなくなる。建前としては客観的に定立された領域ではあるが、思考の場は誰か個人の意識の場でなくてはならない。そして、それはソシュール自身の意識の場・思考の場であろう。つまり「言語langue」とは、「言語langue」の制度的な領域(言語規範とみなしてよいだろう)とそれに媒介される限りでの思考の領域との合併領域であり、それはソシュールの意識内部に存在している。そこではソシュール「言語」の実践者であり観察者である。ソシュール言語学」はそのような立場から「言語」の性格を分析したものである。したがって、ソシュール言語学」を「言parole」「書écriture」の性格を分析したものと考えるのは大きな勘違いである。いわゆるソシュール言語学や構造言語学はこうした勘違いの上に成立している。

しかし、そのような勘違いを引き起こした原因の一半はソシュールの『講義』の中にある。当初は純粋に社会的で静的(statique)なものとして仮構したはずの「言語langue」の中に個人的な領域である思考の場を引き入れただけでなく、そのように拡張された「言語langue」の分析に当って、ソシュール「言」「書」からさまざまの材料を調達してきている。このことは当初のもくろみとは異って、「言語能力langage」のみならず、「言」「書」という「不純物」を「言語langue」の中に引き入れることになり、粗雑な用語の使用と相まって『講義』の「聴講者」のみならずソシュール自身をも混乱に陥れることになった。これはソシュール言語学」が『講義』という形態で紹介されざるをえなかったための悲喜劇かもしれない。さらにいえば、ソシュールが比較言語学の知識をあまりにも多く「言語学」の中に持ちこんでいることも混乱の一つの原因になっている。閉じた一つの「言語langue」(フランス語)のうちに他の「言語langue」(ラテン語・ドイツ語・英語等々)を持ちこむことはソシュール自身がもっとも注意を払うべきことであったにもかかわらず…。

 ソシュール「言語学」とは何か(1)
 ソシュール「言語学」とは何か(4)