〈対象→意識→表現〉過程における認識の発展


〔2006.09.14記〕

自分が書いたことを確認するために以前の稿を読み返していた。「認識・意識が言語にとらわれるということの意味」(2006/08/18) の次のところ(下に引用した部分)を読みながら、以前「ことば掲示板」で秀さんとソシュールについてやりとりしたこと(ソシュール再評価)を思い出した。秀さんとは似たようなやりとりを何度もしているんだなあと思いながら、このやりとりで秀さんが取り上げた「作者の消滅」問題について深草周さんがご自身のサイトで書いていたことを思い出したのである。それで、下に引用した内容はこのとき深草さんがお書きになったことをごく大雑把にまとめたものに過ぎないことに気がついた。それは「鏡としての言葉」と題されたもので、私の書いたものよりずっと精緻である。「1月の雑記/2005」の15日付けの最後にあるので是非お読み頂きたい。

2006.08.18 「認識・意識が言語にとらわれるということの意味」


さてこのようにして表現された言語は、逆に表現した者の意識や認識にも還って来るものです。実際、言語表現はその過程で表現者自身による追体験が繰り返し行われます。つまり、音声言語においては発語された言葉を自分の耳で聞いてその意味をあらためて反省するといったことが行われますし、書き言葉においては推敲というきちんと自覚された形でももちろんのこと、書いている最中にも相手の立場に立った追体験が多かれ少なかれ行われています。

表現者自身によるこのような追体験表現者自身の認識や意識に変容をもたらすことは疑う余地がありません。ですから表現する以前と表現した以後とで、表現した者の認識や意識が変わることは不思議でも何でもないことです。私が繰り返し書いている「言語と意識とは互いに作りあっている」というのはこのことです(他者の表現を追体験する過程でも当然認識や意識の変容は起こります)。

さて、主観と客観とはともに相対的なものです。この二者は厳密に区別すべきものでありながら、意識の内部では互いに浸透しあっています。そして客体的表現は客観が表現されたものであり、主体的表現は主観が表現されたものです。客観は主体が作り出したものであり、主観は言語化される過程で客体化されます。したがって、表現において客観がいかに客観的なものになるか、主観がどの程度忠実に客観化されるかは表現者の現実的・理論的な実践にかかってきます。それは現実(表現者の意識内部で起こっていることも現実に含まれます)と意識との相互の浸透を内包した上り下りの実践ですから、その実践の過程とその結果、表現者の認識や意識が大いに変容する可能性を孕んでいます。