人間の思考・認識は個別概念を介して行われる


〔2006.09.19記〕

概念は『言語』に先立つ(4)」(2006/09/06)において、私は「概念とは、ある対象を〈一定の種類に属するもの〉として把握した認識である。いいかえると、個々の対象から〈ある一定範囲の対象に共通するある一定範囲の属性〉を抽出して形成した心像が概念である。すなわち概念は基本的に対象の知覚表象や想起された表象から抽象されて形成されるものである」と書いた。そして「人間の認識は徹頭徹尾概念的である」(同題の稿 2006/07/27)とも書いた。このことは、人間の思考・認識は概念を介して――それも三浦つとむのいうように主として個別概念(個別的概念)を介して――行われるということを意味している。しかしこれは一九世紀中葉にすでにディーツゲンが述べていることの再認識にすぎない。

ディーツゲンは『人間の頭脳活動の本質』(小松攝郎訳・岩波文庫、1952年)で次のようにいっている。

(注) 以下の引用文は「二 純粋理性或は一般的思惟能力」から。また旧字体新字体にあらため、傍点部分は で表わした。


 一般に食料品について話をし、そして話の途中で果物、穀物、蔬菜、肉類、パン等に及ぶ場合、これらは差異はあっても食料品という概念の下にすべて一括されて、同じ意味の表現として使われるように、我々はここで理性、意識、悟性、表象の能力、概念の能力、区別の能力、思惟(しい・しゆい)の能力、或は認識能力を同じ意味のものとして扱うこととする。我々が今問題とするのは、思惟過程のさまざまの種類ではなくて、その一般的性質である。(p.28)

 …思惟は脳髄の活動である。…思惟は主観的な経過として、内的な過程として我々に感ぜられる。

 この過程はその内容から云えば瞬間ごとにまた一人一人異っているが、その形式から云えばいつでも同じである。云いかえれば、我々は思惟過程において、すべての過程におけると同じように、特殊なもの或は具体的なもの一般的なもの或は抽象的なものとを区別する。思惟の一般的目的は認識である。…(p.29)

理性、意識、悟性、表象の能力、概念の能力、区別の能力、思惟の能力、或は認識能力」といった形態で人間の意識活動として現われる精神的な能力は、表面的には「特殊なもの或は具体的なもの」であるという点ではさまざまに異って見えるけれども、それは「脳髄の活動」の「一般的性質」つまり「一般的なもの或は抽象的なもの」をそこから区別してとらえる能力であるという点で(すべての精神的な能力は)「同じ意味のもの」である、とディーツゲンはいっている。

一般的なもの或は抽象的なもの」を「特殊なもの或は具体的なもの」から区別してとらえるということは、それぞれが差異をもつ「特殊なもの或は具体的なもの」を「一般的なもの或は抽象的なもの」を同時にあわせもつものとして把握することである。つまり人間の思考一般の目的は、個別的な存在である「特殊なもの或は具体的なもの」を認識することすなわち「特殊なもの或は具体的なもの」を概念的に把握することである。

もう少し後のところでディーツゲンは「一般的なものがすべての概念、すべての認識、すべての科学、すべての思惟作用の内容である。このようにして思惟能力の分析の結果思惟能力とは特殊のものから一般的なものを究める能力であることが明かになる。眼は見えるものを究める。耳は聞こえるものを、そして我々の脳髄は一般的なものを、すなわち知られるもの或は認識されうるものを知覚する(p.40)ともいっている。

それでは、思考・認識の対象となっている個別的な「特殊なもの或は具体的なもの」とはなんであるのか。


 内容のない思惟・認識がないと同じように、対象のない思惟、考えられ或は認識される他者のない思惟は存在しない。思惟は一つの活動であり、そして他のすべての活動と同じように、それによって自己を表現する客体を必要とする。…(p.29)

 特定の表象、現実の思惟は何れもその内容と同一であるが、その対象とは同一でない。私の思想内容としての私の机はその思想と同一であって、区別することができない。しかし、頭脳の外にある机は思想とはまったく異った対象である。内容が思惟作用一般としての思惟から区別されるのは、その一部分としてであるにすぎないが、対象は絶対的に或は本質的に思惟とは異ったものである。(p.29〜30)

 我々は思惟存在とを区別する。我々は感覚的対象とその精神的概念とを区別する。それにも拘らず、非感覚的表象もまた感覚的物質的であり、すなわち現実的である。私が机そのものを知覚するのと同じように物質的に、私は私の机という思想を知覚する。若し手で掴みうるもののみを物質的と名づけるならば、いかにも思想は非物質的である。しかし、そのときには薔薇の芳香や暖炉の暖かさも非物質的である。……精神は手で掴みうる机、目に見える光線、耳に聞こえる音が現実的であるのと同じように、現実的である。思想はいかにもこれらの事物から区別されはするが、それにも拘らず共通点もある。すなわち思想は他の事物と同じように現実的である。…(p.30)

 感覚的現象は何れも、それによって自己を表現する対象を必要とする。暖かさが現実的に存在するためには、対象が、すなわち暖められる他者が存在しなければならない。能動的なものは受動的なものなしにはありえない。見えるものも視覚がなければ見えないし、視覚も見えるものがなければ視覚ではない。思惟能力もまた現象するものであるが、しかし、すべての事物と同じように、決してそれ自体だけで(an und für sich)現れるのではなく、常に他の感覚現象と結合して現れる。…(p.30〜31)

非対象的な存在とは一つの非存在である」(「存在と対象」2006/06/30) とマルクスもいっているように、人間の意識もその例外ではなく、「思惟能力もまた…すべての事物と同じように、決してそれ自体だけで(an und für sich)現れるのではなく、常に他の感覚現象と結合して現れる」のである。

それゆえ、意識において人間の思考・認識の対象となっている対象認識は存在つまり感覚的対象からもたらされるものであり、それはまた思考・認識が感覚的現象すなわち個別的感覚的対象のもつ属性の作用の対象となっていることをも意味している。

つまり、思考・認識の対象となっているのは感覚的対象から意識にもたらされた、あるいは感覚的対象から意識がつかみ取った知覚であり、思考・認識の内容は知覚から抽象された表象・概念である。このことは人間の思考・認識が個別的・感覚的な知覚を対象とし、そこから抽象された表象・概念を介して思考・認識が行われているということを意味している。そして、知覚が現われると同時に思考・認識が行われることは、知覚や表象と同時に概念的な把握が行われることをも意味しているのである。


 先に我々は、すべては認識されうると云った。そして今は、認識されうるもののみが認識され、知られうるもののみが科学の対象となることができ、考えられるもののみが思惟能力の対象である、と云う。思惟能力は読むこと、聞くこと、触ること及びその他感覚世界の無数の活動のすべての代りをすることはできないという意味において、思惟能力もまた制限されている。我々はいかにもすべての客体を認識するであろうが、しかしどの客体をも認識し尽し、知り尽し、或は把握し尽すことはできない。言いかえれば、客体は認識の中へ解消するものではない。…思惟には考えられる対象が必要である。従ってまた、なお我々の思想以外のもの、我々の意識以外のものが必要である。我々は客体を見、聞き、触り、考えるが、それが主観的なものではない、ということをいかにして知るに至るかについては後に述べよう。(p.31〜32)

 我々は思惟によって能力に応じて世界を二重に捉える。一は現実において外的に、他は思想、表象において内的に捉える。その際、世界における事物が頭脳における事物と性質を異にすることは容易に知りうるところである。事物はその最上の形(optima forma)、自然の拡がりのままで頭の中へ入ることはできない。頭脳は事物そのものをでなく、その概念、表象、一般的形式をとり入れるにすぎない。…頭脳の中には事物の無限の多様性と無数に豊富な性質とを入れる余地はない。(p.32)

 「世界は自己の外で測られる。」我々は自然及び生命の諸現象を二重の形で、すなわち、具体的な、感覚的な、多様な形と、抽象的な、精神的な、統一的な形とで認識する。我々の認識にとっては世界は多様なものである。頭脳は世界を概括して統一する。そして世界について云われることは、特殊の部分の何れについても当嵌まる。…水滴の原子でも或は化学元素の原子でも、それが現実的である限り、分割しうるものであり、その各部分は同一ではなく、多様である。…しかし、概念、思惟能力は、各々の感覚的部分から抽象的な全体を作り上げ、そして各々の感覚的全体或は感覚の一定量を抽象的な統一世界の一部分として認識する。事物を完全に理解するためには、我々は事物を実践的並に理論的に感覚及び頭脳をもって、肉体及び精神をもって捉えなければならない。我々は肉体をもって肉体的なもののみを、精神をもって精神的なもののみを捉えることができる。それ故事物もまた精神を持っている。精神は物質的であり、事物は精神的である。精神と事物とは相互に関連してのみ現実的である。

人間は多様で感覚的な「自然及び生命の諸現象を二重の形で、すなわち、具体的な、感覚的な、多様な形と、抽象的な、精神的な、統一的な形とで認識する」。このように、人間の思考・認識は世界の事物・現象を特殊な・具体的な側面一般的・抽象的な側面との二重の側面においてとらえている。この二重の側面で把握されているものが個別概念である。しかし、事物・現象・関係は多様であるから同じ対象であってもそこから抽象される一般的・抽象的な側面もまた多様である。個別概念はこのように多様な形で人間の意識に現われる。同じ対象が動物として・人間として・会社員として・上司として・部下として・母親として・姉として・あるいは子として・妻として・日本人として…現われる。つまり、一般的・抽象的な側面もまた特殊な・具体的な側面一般的・抽象的な側面とをもつのであり、特殊な・具体的な側面もまたさらに特殊な・具体的な側面一般的・抽象的な側面とをもつのである。

これは事物・現象が他の事物・現象および人間の意識との相互の関連において一般的・抽象的な性質と特殊な・具体的な性質とのアンサンブルとして多様な現われ方をするからである。ディーツゲンは事物・現象・関係がこのように多様に亘る一般的・抽象的な側面をもっていることを「事物もまた精神を持っている」と表現しているのである。


 我々は事物を見うるであろうか。否、我々は眼へ及ぼす事物の影響を見るだけである。我々は酢を味うのでなく酢の我々の舌に対する関係を味うのである。その結果が酸っぱいという感覚である。酢は舌に対してのみ酸っぱい感じを与え、鉄に対してはそれを溶かし、寒さに対しては固まり、熱に対しては流動体となる。そのように酢は、それが空間的・時間的に関係する客体が異るのに応じて、種々の作用をする。例外なしにすべての事物がそうであるように、酢は現象する。しかし、決して酢自体だけで現れるものではなく、常に他の諸現象と関係し、接触し、結合してのみ現れる。

 視覚が樹木を見るのでなく、樹木の見える所だけを見るように、思惟能力もまた客体そのものをでなく、客体の認識されうる精神的側面を受け入れるだけである。その結果として生まれる思想は、脳髄がある客体と結合して産んだ子供である。思想には一方における主観的思惟能力と他方における客体の精神的性質とが現れる。すべての精神作用はある対象を前提とし、その対象が外に存在し、何らかの方法で感覚的に知覚され、或は見られ、聞かれ、嗅がれ、味われ、或は触れられ、要するに経験される一つの対象から生ずるものである。(p.32〜33)

さらにディーツゲンは進んでいう。


…精神は肉体的・感覚的活動であって、さまざまの現れ方をする。精神はいろいろのときに、種々の対象によってさまざまの頭脳の中に産み出される思惟である。他のすべてのものと同じように、我々はこの精神を特定の思惟作用の対象とすることができる。対象としてのこの精神は多様な、経験的な事実であって、この事実は、それが特殊な脳髄の作用と接触すると、この特殊な思惟作用の内容として精神という一般的概念を産み出すのである。一般に事物はその概念から区別されるように、思惟の対象は思惟の内容から区別される。感覚的に経験される多様な過程は、思惟の対象となり、その対象によって思惟は過程という概念を内容として所有するに至る。或る感覚的対象の概念はその父母を持っているということ、すなわちその概念は経験された対象によって我々の思惟から産み出されるということは、我々の現在の思惟が自己自身の経験から自己独自の概念を所産として産み出す場合の三位一体よりは容易に理解され、従って明瞭である。後者の場合には、我々は円運動をしているように見える。その場合には、対象、内容及び活動は合流するように見える。そこでは理性は自らのところに止まっている(すなわち、理性がその感覚的に与えられる存在を保持することによって)。言いかえれば、理性は自ら対象の役目をし、そこから自己の内容を受取る。…字句にこだわるのでなく、意味を求める読者は、存在と思惟との区別は思惟能力にも適用されるということ、認識・把握・思惟等々の事実はこの事実の理解とは異るということ、を認めるであろう。そして後者すなわち理解もまた一つの事実であるから、すべての精神的なものを事実的或は「感覚的」と称することも許されるであろう。…(p.35)

 さて、理性或は思惟能力は、個々の思想を産み出す神秘的客体ではない。逆に、個々の、経験された思想という事実が客体を形作り、この客体が脳髄の作用と接触して理性概念を産み出すのである。理性は、我々の知っているすべての事実と同じように、二重の存在を、一は現象或は経験における存在、他は本質或は概念における存在を、持っている。或る客体の概念はその経験を前提としており、思惟力の概念もその例外ではない。ところで人間は本来自ら(per se)考えるものであるから、何人も自らこの経験をしている筈である。(p.35)

ここは観念的自己分裂の一つの現われ方をいっている箇所である。「我々の現在の思惟が自己自身の経験から自己独自の概念を所産として産み出す」とは、意識が自身をも思考・認識の対象とするということである。つまり、意識は「理性、意識、悟性、表象の能力、概念の能力、区別の能力、思惟の能力、或は認識能力」といった精神的な能力・働きそれ自体をも思考・認識の対象とし、個々の時・個々の場合におけるこれらのあり方を「二重の存在」としてすなわち個別概念としてとらえているとディーツゲンはいっているのである。


 概念を産み出すこととこの概念を分析することとは、両者とも脳髄の作用、悟性の活動である限りにおいては同一である。両者は共通の性質を持っている。しかし、両者の区別は本能意識との区別である。人間がまず考えるのは、考えたいからではなく、考えざるをえないからである。概念は本能的に、自然的に産み出される。この概念を明瞭に意識し、知識と意志とに従属させるためには、我々はそれを分析することを必要とする。(p.37)

人間が個別概念を介して思考・認識を行うのは「本能的」なものであるとディーツゲンはいう。たしかに乳幼児は生後間もなく概念化能力を発揮し始め自分の身の回りのものごとをカテゴリー化して把握している。この能力は生得的なものであり、対象と出会うことによって発現する。これは対象と意識との相互作用の結果として獲得される能力であり、およそ本能的なものとはそういうものである。

しかし事物・現象・関係を自己の意識との相互関連において個別概念として把握することは本能的なものであるがゆえに自覚されにくいものである。実際、日常生活においてあらゆる対象を単なる知覚や表象としてのみではなく、概念を伴った知覚や表象としてすなわち個別概念として自覚的に認識することはたやすいことではない。ディーツゲンのいうように「この概念を明瞭に意識し、知識と意志とに従属させるためには、我々はそれを分析することを必要とする」のである。

以下、長くなるが思考・認識が個別概念を介して行われる様を語るディーツゲンの分析に耳を傾けることにしよう。


 ある概念の分析と、その対象すなわち概念を産み出した事物の理論的分析とは同じものである。何れの概念にも現実の対象が照応している。ルートヴィヒ・フォイエルバッハは、神及び不死の概念さえも現実的・感覚的対象の概念であることを証明した。動物・光・友人、人間等々の概念を分析するためには、動物・友人・人間、光の現象等が分析される。光の概念の対象が或る個別的な光の現象でないように、分析されるべき動物概念の対象は個々の動物ではない。概念は種族を、一般的な事物を包括する。従って、動物とは何であるか、光とは何であるか、友人とは何であるか、という分析、或は質問は、何らか特殊のものをではなく、一般的なもの・種族をその要素に分解することを仕事とすべきである。

 概念の分析と、その対象すなわち対象の分析とがお互に異ったものであるように思われるのは、我々が、対象を二つの方法で、すなわち特殊のものにおいては実践的、感覚的、行動的に、そしてまた一般的なものにおいては理論的に、頭脳をもって精神的に、区別する能力を持っているからである。実践的分析は理論的分析の前提である。我々にとって、動物概念を分析するためには感覚的に区別される動物が、友人を分析するためには個々に経験される友人が、材料或は前提の役割をしている。

 何れの概念にも対象が照応し、対象は実践的に多くの分かちうる部分に分解される。されば、概念を分析するというのは、既に実践的に分析されたその対象を理論的に分析することを意味する。概念の分析はその対象の特殊の部分の共通性或は一般性を認識することの中に存している。種々の歩行に共通なものすなわち律動的な運動が歩行概念を構成し、種々の光の現象に共通なものが光の概念を構成する。化学工場は化学製品を得るために、科学は対象の概念を分析するために、対象を分析する。

 我々の特殊な対象である思惟能力もまたその概念から区別される。しかし、概念を分析するためには、その対象が分析されてあることを要する。この対象は化学的に分析することはできない――すべてのものが化学に属するわけではないから――、しかし理論的に或は科学的に分析することはできる。既に述べたように、科学或は理性はすべての対象を取扱う。しかし、科学が概念的に分析しようとするすべての対象は、予め実践的に分析されることを必要とする。すなわち、対象の種類に応じて、或はいろいろに使ってみたり、或は慎重に眺めてみたり、或は注意深く聞いてみたり、要するに徹底的に経験されねばならない。

 人間が考えるということ、すなわち思惟能力は感覚的に経験される事実である。事実が我々が本能的に概念を形造るための機縁或は対象を与える。されば、今後は、思惟力の概念を分析するとは、種々の、個人的な一時的な現実の思惟作用から、共通なもの或は一般的なものを見出すことを意味する。自然科学的方法でそのような研究を進めるためには、我々は物理学的な道具をも科学的試薬品をも必要としない。何れの科学や認識にとっても欠くことのできない感覚的観察は、この場合言わば先天的に(a priori)与えられている。我々の研究の対象、すなわち思惟力の事実とその経験とを、何人も記憶その物の中に持っている。(以上 p.38〜40)

このあとの記述も興味深いものであるが、最後の段落を掲げてこの稿の終りとする。


 意識(Bewusstsein)は既にその語義からみてもわかるように存在の知識(Wissen des Seins)である。従って意識は一つの形式、特性であって、他の特性から区別されるのは、知っている(bewusst ist)ということによってである。性質説明されることはできず、経験されるだけである。我々が経験によって知るところによれば、意識すなわち存在の知識には、主観と客観との分裂、存在と思惟、形式と内容、現象と本質、属性と実体、特殊と一般との間における区別・対立・矛盾が含まれている。このような意識に内在する矛盾からお互いに矛盾する命名法も説明される。すなわち意識は一方においては一般者の機能、普遍化の能力或は統一の能力と名づけられ――そして他方においてはしかも同じ権利をもって区別の能力と名づけられる。意識は異ったものを普遍化し、普遍的なものを区別する。意識の性質は矛盾である。そしてこの性質は矛盾を含んでいるから、同時にそれは媒介、説明、理解の性質である。意識は矛盾を普遍化する。意識は、すべての自然現象、すべての自然物が矛盾によって生きており、あらゆる物が対立する他者との協同によってのみ存在することを知っている。視覚がなければ見えるものも見えず、逆に視覚も見えるものがなければ見えないように、思惟と存在とを支配する矛盾は一般的なものであることを知らなければならない。思惟能力の科学は矛盾の普遍化によってすべての特殊の矛盾を解消させるものである。(p.45〜46)