言語学の対象と言語過程説


〔2006.07.23記・07.24修正・07.26参照リンク追加〕

言語学――三浦つとむの規定する言語学(私が言語学であると認識している言語学)――とは一体何を対象とする学であるのか。

言語学が考察・研究の対象とするのは表現されたものとしての言語つまり言葉である。そして言葉とは話され、書かれ、手の形あるいは点の配置によって、人間が知覚できる形態で表現された言葉――話し言葉、書き言葉、手話、点字――である。

しかし表現された言葉はそれ自体としては単なる音波、インクや画面のドットの集合あるいは手の形、点の集まりにすぎない。それらが風にそよぐ木々の葉ずれの音や猫がキーボードの上を歩いた結果ディスプレイに表示された文字の集まり等々と区別されるのは、表現された言葉の背後に表現された対象を認識する過程や認識された対象を言葉として表現する際の言語規範の媒介といった一連の過程が存在していることである。

三浦つとむはこれらの一連の過程を「対象→認識→表現」のように表わし、言葉はこれらの過程を経て表現されるものであるから、言葉はその背後にこの複雑な過程的構造をもったものとして研究されなければならない、つまりその過程的構造を分析することによってはじめて言葉のもつ真の性格が明らかになると主張した。三浦の言語学は「対象→認識→表現という言語活動過程そのものが言語である」という時枝誠記(ときえだもとき)言語学を批判的に継承し発展させたものである。三浦は時枝の言語学説つまり言語過程説を継承するものとして自らの言語学説をも言語過程説と呼んだが、時枝の言語過程説と三浦の言語過程説とは当然分析の方法も各種の規定も異っている。

したがって三浦の言語学は、認識論(意識論)・規範論・表現論・意味論が相互に関連しあった一つの構造体をなしている。また規範論のうちには認識論(意識論)に裏づけられた文法論や語彙論・語法論、統語論、文章論等ももちろん含まれるが、三浦が成し遂げた仕事はまだそれらの一部にすぎない。

統語論に関しては単語を客体的表現主体的表現の二種に分け、後者が前者を承ける形で文構造を形づくっていることを時枝誠記風呂敷型文構造で示した。客体的表現・主体的表現というこの分類は、語をその形態からとに分ける江戸時代の国学者たちの詞辞論の継承である。おおざっぱにいえば詞は用言・体言であり表現主体が客観としてその指示対象をとらえた語、辞はいわゆる「てにをは」(助詞・助動詞・接続詞など)であり表現主体の主観である判断や立場や感情を表わした語である。本居宣長は語の連なりからなる言葉を「玉の緒」にたとえ(詞を玉に辞を緒に)、鈴木朖(あきら)は詞は「指し表わす語」であり辞は「心の声」であると説いている。

時枝は風呂敷型文構造の分析から判断辞の欠落・省略たる零記号を発見した。この零記号の発見と風呂敷型文構造の分析とから時枝は独自の文法論・品詞論を築いた。三浦は時枝の文法論・品詞論に再検討を加えている。これらは言葉の内在的構造の検討からなされたものであり、従来・爾後の機能的・形式的な文法論・品詞論とは一線を画するものである。そして主体的表現と客体的表現とによる統語構造・文構造が意識における観念的自己分裂のダイナミックな運動を言葉として表現したものであることを三浦つとむは明らかにした。また同時にそれを通して三浦は意識の観念的自己分裂運動の中に時制の秘密があることを発見した("present" は「現前」である)。

さらにこの観念的自己分裂の能力獲得こそが人間の意識の胚胎であり、ことば(言語)の誕生の契機となったということを明らかにしたのは三浦つとむの言語過程説を批判的に継承する経済学者宮田和保である(「非在の現前」論は観念的自己分裂の「現前」論によってその矛盾が解決される)。

〔注記〕

「言語論・言語学」などまでも「言葉学・言葉論」に言い換えるのはやはり違和感があるので、このような言い換えはしないことにした。

〔07.26追記〕

時枝の風呂敷型文構造(風呂敷型統一形式・入子型文構造)については高沢公信さんの「言葉の構造と情報の構造」を参照されたい。