「言語」の介在しない概念


〔2006.07.26記〕

言語規範が介在しない概念について考えてみたい。ソシュールはそのような概念は存在しないと考えていたらしい。そうでなければ「思想は,それだけ取ってみると,星雲のようなものであって,そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない.予定観念などというものはなく,言語が現われないうちは,なに一つ分明なものはない.(『一般言語学講義』)などという言葉が出てくるはずがないからである。

これまでにも私は言語規範――厳密にいえばシーニュ――が介在しない概念が存在することを前提に論を進めてきた。というのは、私にとって言語規範が介在しない概念が存在するのはごく当たり前のことだからである。普通に生活している人間なら誰でもちょっと注意して自分の意識の中を覗いてみればシニフィアン(音声表象)と結びついていない概念が生じては消え生じては消えしていることに気がつく。

もし自分の身の回りの状況を認識できない人間がいたとしたら、その人は暮らしていくことに非常な困難を感じるであろう。目を閉じて歩いてみればそういう状況が理解できる。そして、ごく普通に生活しているということはたとえ無自覚であっても自分の身の回りの状況をきちんと認識して生きているということなのである。そして、自分の身の回りの状況を認識しているということはそれを構成している「もの」や「こと」およびそれらの関係を認識しているということであり、それらの「もの」や「こと」およびそれらの相互関係を、そしてそれらと自分との関係を、概念や概念相互の関係として意識の中でとらえているということを意味する。たとえば食事をしているとき、箸や茶わんやご飯や味噌汁…といったものについて私たちはそれらが何であるか認識した上で、手に持ち口に運び咀嚼し嚥下しているはずである。しかしご飯を食べているときに「チャワン」「ハシ」「ゴハン」「クチ」「カム」「ノミコム」などという音声表象を頭の中に思い浮かべている人はまずいないであろう。

このことは生活のあらゆる場面についていえることである。自分の身の回りの状況についていちいち音声表象に結びつけていたら、そちらに気を取られてしまって何一つきちんとすることができないであろう。音声表象に結びつけて意識するのは、何かに特別に関心を惹きつけられたときとか、自分に言い聞かせて特に気をつけなければいけないときとか、もの思いにふけっていて感慨が思わず脳裏に音声表象として浮かんできたとか、あるいは思考活動をしているとき、そして他者との間に言葉を通じて交通をしているとき…、といった場合なのである。

私たちは人生のかなり多くの時間を「言語langue」なしに暮らしている。そしてそのときも私たちの意識の中にはさまざまな概念が生成・消滅し、記憶・再生されているのである。