誤読「言語の法典を利用するさいの結合」


〔2006.07.25記〕

ソシュールの「言語」(3) 」(2006/07/16)は小林英夫訳『一般言語学講義』の中の「言語」はすべて「記号の体系」である、と私が思い込んでいたことから始まる誤読の話であった。つまり「言語」と表記されているものの中には「思考言語」と解釈すべきものがあるのであって、すべてを「言語」「記号の体系」としてしまうとソシュールの真意を読み誤る、ということであった。

しかし、私はその後も腑に落ちない思いを抱きつづけた。ソシュール「言語」「思考言語」の意味で用いているのは果してあの箇所だけであろうか。ソシュール派の人々が「思考言語」という言葉を頻繁に用いるのにはそれなりの理由があるのではないか。そんなことを思いながらもう一度「ソシュールの「言語」(3) 」で引用したソシュールの言葉を読み返してみた。何度か読み返すうちに私は自分の誤読に気がついた。

『一般言語学講義』序説第3章§2


 言語は,話手の機能ではない,個人が受動的に登録する所産である;それはけっして熟慮を予想しはしない;反省が介入するのは,p172 以下で論じる分類活動のばあいに限られる.

 これに反して,言は意志と知能の個人的行為であって,これにはつぎのものを識別してしかるべきである: 1. 話手がその個人的思想を表現する意図をもって,言語の法典を利用するさいの結合; 2. かれにそうした結合を表出することをゆるす精神物理的機構.

誤読していたのは「1. 話手がその個人的思想を表現する意図をもって,言語の法典を利用するさいの結合」の部分である。これを私は「言語表現に先立って頭の中で考えをまとめる思考過程(これには「言語」がかかわっている)」と解釈したのだが、実はそうではなかった。ソシュールが「表現」というときそれは通常「言」を意味している。ソシュールのいう「言語活動langage」には表現としての書き言葉つまり「書écriture」が含まれることはまずない。ソシュール言語学「言語langueの言語学である。ソシュール「言の言語学についてほとんど何も考察をしなかったが、「書の言語学についてはその概念さえソシュールの辞書にはない。ソシュール言語学においては「言語langue」こそが嫡子であって、「言parole」は継子であり「書」は鬼子である。

閑話休題。したがって「個人的思想を表現する意図をもって,言語の法典を利用するさいの結合」とは発話の際、音声を発する直前に話手の頭の中にある「個人的思想」が「言語の法典」すなわち「記号の体系」と結合する(分節される)ことであり、そこから直ちに「精神物理的機構」によって音声が発せられるのである。つまりここでは「頭の中で考えをまとめる思考過程」については何も言及されていないと解釈すべきであろう。「言語の法典」を「思考言語」と解釈するのはさすがに無理があるから、ここでの「個人的思想」は未だ分節されていない思想と解するほかはない。

そういうわけで、「ソシュールの「言語」(3) 」の論旨には一部修正すべき点がある。「言語」についての各部分の解釈には問題はない。


 心理的にいうと,われわれの思想は,語によるその表現を無視するときは,無定形の不分明なかたまりにすぎない.…

語によるその表現」は「言」によるその表現と解釈すべきである。 つまり「 1. 話手がその個人的思想を表現する意図をもって,言語の法典を利用するさいの結合; 2. かれにそうした結合を表出することをゆるす精神物理的機構.」のうちから 「2.」を無視するということであろう。

これによって、「言」による表現を前提としない純粋に心的な思考活動は「言語」のうちに入るから、ソシュール派の人々は安心して「思考言語」という言葉を用いることができるし、「言語」「思考言語」の意味で用いられることがあっても構わないということになる。

しかしこのことは、ソシュール「記号の体系」「思考言語」とを区別していないことを意味する。「記号の体系」シーニュの体系である。シーニュシニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)との連合であり、シニフィエは一般概念つまり表現された語のもつ意義の部分であって、語のもつ意味の部分ではない(ここで使われた「もつ」という言い方は比喩である。表現された語の背後には言語規範を媒介にした「意義」と「意味」――一般概念と個別概念――とが結びついている)。

思考過程というのは、シーニュのうちの意義の部分(シニフィエ)を媒介として<意味と意義をもった思想の概念>にシニフィアンを結びつけ、思想概念どうしの間に関連づけを行ない組織だった構造をもった認識として思考内容を形成する過程である。私たちが行なっている思考においてはシニフィアンと結びついた思想の概念は意義と意味とをもっている――むしろ意義と意味とからなっているというべきであるが――のであるから、どんな思考内容も意義と意味とをもっている。ごく単純な「オマエハバカダナア」という音声表象(シニフィアンの連結)と結びついた思考をとってみても「バカ」という音声表象には特定の概念(意義だけでなく意味をもった概念)が結びついているのである。何を対象として「バカ」と結びつくような概念が生じたか、その対象によって「バカ」と結びついた概念のもつ意味は異なっている。つまり「オマエハバカダナア」という音声表象と結びついた思考は思考の対象となっているものが異なれば意味(内容)が異なるのである。表現された言葉において、その意味が文脈に依存しているといわれるのは、すでに思考の段階において思考内容の中に文脈が存在しており、思考を形成するそれぞれの思想の概念は特定の対象と結びついた概念であり、意義と意味とをもった概念だからである。

ソシュール言語学においては、思想は「無定形の不分明なかたまり」であり、「言語」によって分節された思想=「思考言語」は意義の連結であり意義の構造である。そこには意味が存在しない。構造主義言語学において意味論が確立しない原因、チョムスキーが破綻した遠因はここにあるのである。