脱「言語」宣言


〔2006.07.23記・07.25一部削除〕

「言語」という言葉はソシュール以来非常にまぎらわしい術語になってしまった。「表現されたものが言語だ」といくら主張してみても、ソシュール的な意味の言語(langue)が氾濫している中(実際は両者および言語活動全体とが無頓着に混用されているというのが実情だろう)ではゴマメの歯ぎしりに近いし、私が表現されたものとしての言語のつもりで言語という言葉を使ってもソシュール的な意味の言語(langue)であると誤解されるおそれがある。そこで私はしばらくの間、表現されたものとしての言語を言葉と表記し、ソシュール的な意味の言語(langue)をカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」と表記することにした。言語規範という術語をいいかえるのは混乱のもとだからそのまま用いるが、言語規範は言葉を表現・受容するとき、そして思考をするときに媒介として働く規範であるということは強調しておきたい。

また、「記号」、「語」についても、心的なものすなわち認識に属するソシュール的な意味の記号(signe)、語(mot)もこれらをカッコつきの「記号」あるいは「記号signe」「語」あるいは「語motと表記する。カッコなしで表記された記号は表現されたものつまり通常の意味の記号および語である。

〔注記〕

ソシュールの定義した「言語」(=「記号」の体系)は言語活動のうちの純粋な心的部分つまり認識に属する。しかし、心的部分のうち「言parole」の表現に関わる能動的・個人的な過程すなわち言語規範に媒介される過程はソシュールの定義では「言語」に含まれず「言」に含まれる。なお、この「記号」の体系について三浦つとむはこれを言語規範と規定している。