幼児の頭の中は星雲のようなものか(修正版)


〔2006.07.07記・修正〕

前稿に書いたように「言語なしの思考」(2006.07.06)に対して秀さんから「ソシュール的な発想」ということで何を言いたかったのか(2006年07月06日)というトラックバックをいただいている。

それを読んで、思考において人間はシーニュを運用していると秀さんが考えていることは理解できた(つまりシーニュを言語(langue)から取り出してきて運用しているという構造主義派の人たちの考えとほぼ同じであるということ)。それに対して私は、人間が思考において運用しているのはさまざまな観念や表象であって言語規範はそれらの観念にラベルを貼るための媒介をしていると考えていることは前々稿および前稿で書いた通りであるから、この件については終わりにしたい。

しかし引用されているソシュールの言には賛成できないのでそこだけ指摘しておきたい。秀さんの稿の最後の方に以下のような部分がある。


「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものは無い。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」

(『一般言語学講義』)

内田さんは、これらの言葉から、「ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、元々は切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました」と語っている。そして次のように結んでいる。

「言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲上の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前が付くのではなく、名前が付くことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。」

さて、『一般言語学講義』から引用されているソシュールの言葉とそれについての内田氏の説明であるが、果してこの記述はそのまま鵜呑みにしてしまっていいのだろうか。構造主義の学者はみな一様にこのソシュールの言葉を真理であるかのように語っているが……。

言語の出現以前のことは人類の草創期のことゆえ今さら遡って直接観察することはできない。しかし、意識の発生過程や言語の獲得過程に関して、人間は個体発生において系統発生をなぞっていると思われるので言語を獲得する以前の人類の頭の中がどんなであったかは、言語を獲得する以前の幼児の頭の中がどうなっているかを実証的に確かめることで、ある程度のことはわかるであろうし、少年期以降に初めて言語を獲得したヘレン・ケラーその他の人たちの様子を観察することができればさらによい検証ができるであろう。広い世界のことであるからこういう研究を手がけている研究者もいるだろうと思われる。とりあえず私に利用できそうなのは、現在の発達心理学の成果である。それによると言語獲得以前の幼児であっても概念および概念スキーマを運用することによってかなり正確に世界を把握しているようである。カテゴリー的な認識の萌芽もみられるようで前頭葉の発達とあいまって言語を獲得するための準備が着々と進んでいる段階であるという。幼児の(いや乳児の段階でも)頭の中はけっしてカオス状態なんかではないのである。考えてみれば分かることだが、人間の幼児に限らず言語をもたない犬や猫であってもその頭の中はカオスなどではないだろう。かれらもまた自分の身の回りの世界をかなり秩序立てて把握しているように見受けられる。

それではなぜソシュールはこんなとんでもないことをいったのだろうか。これは私の憶測にすぎないのだけれど……ソシュールは自分の頭の中を覗いてみたのではないか。ソシュール言語学者であるから、その頭の中はシニフィアンと結びついた概念であふれかえっていたであろう。そして、ソシュールは自らの頭の中からシニフィアンと結びついた概念であるシーニュの体系 langue を除外して(もちろんシミュレートしただけだが)みたのではないだろうか。その結果そこに彼が見たのは彼がシニフィアンと結びつける必要を認めなかったさまざまな観念や概念の集まりであった。

しかし、ラベルはシニフィアンだけではないから、たとえシニフィアンと結びついた概念をすべて(つまり langue をまるごと)取り去ってもなお他の表象によって互いに関連づけされたカテゴリー認識や、概念スキーマによって形成された空間や時間・運動などの構造的な関連認識などが残っているであろう。


この発想は、僕にはとても魅力的に見える。それが、人間がものを考えると言うことの本質を言い表しているのではないかと思えるのだ。この魅力が多くの人にも感じられて、ソシュール的な発想が広く受け入れられたのではないだろうか。この考えがもし否定されるとしても、一度はよく考えてみてその上で否定しなければならない重要な考えなのではないかと思う。僕は今のところ、この発想に魅力を感じているので、肯定的にこの考えを受け入れているという状態だ。

これについての私の考えは、前の稿に書いたことを別の表現で書いただけであるが以下のようなものである。人間は世界を解釈するために言語をつくりだしたのではなく、協働生活の中で他者と自己との間で物質的・精神的交通をする必要から社会的意識を発生させ、社会的な言語をつくりだしたのだ、と私は思っている。そうしてできた言語が人間の意識を発達させ、その発達が言語のより高度な発達を促し……といった風にして、意識と言語とは手を携えて発達してきたのだと。