「言語」なしの思考(2)


〔2006.07.06記〕

前稿「言語なしの思考」に対して秀さんからトラックバックをいただいた。それ(『「ソシュール的な発想」ということで何を言いたかったのか』)についての感想はいずれまたということにして、昨日来秀さんの「言語なしの思考は出来るか」についてあれこれ考えたことを先に済ませておきたい。

前稿で取りあげた秀さんの感想に関して。私は「物質的存在が我々に反映という認識をもたらし、存在の属性として世界を理解すると言うよりも、言語によって世界を切り取って、世界の一部を考察の対象にして理解が進むという方が、何か現実の人間の活動を正しく語っているような気がしてしまう。」における「AよりもBの方が現実の人間の活動を正しく語っているような気がしてしまう」という表現にも腑に落ちない感じを抱いた。

秀さんのこの感想を簡潔に表現すれば「AよりもBの方が正しいと私は思う」という文であろう。しかしこのAとBを(唯物論的考えかたと観念論的考えかたという風な)二項対立として考えるのはおかしいと私は思う。私としてはAという活動ないし現実から人間に向かう働きかけ(とはいえこれは一方的受動的なものではなく人間の方からも現実に働きかけ、知覚を通じて現実からその属性をつかみ取るという実践的・能動的活動が不可欠である)があってはじめてBという活動が成立するのではないかと思っている。そして、世界を理解する現実の人間の活動としてはAもBもともに重要であってどちらを欠いても人間が世界についての認識を深めることはできないだろうと思う。つまり、現実の世界に現実に生きている人間の活動としては、まず生きていくためには現実に向かい合い・現実を知り、そして現実に働きかけ、現実を変えなければならない。そこから「世界を深く理解したい」という欲求が生れてくるのは必然であろう。その欲求に動かされる形で世界に・現実に働きかける。そこから現実の反照として意識内に世界の像が形成される。またその像をもとにすでに獲得された知や概念を駆使した分析が行われるとそこで得られた新しい認識をもって再び現実へ・世界へととって返し、新しい観点から現実に働きかける。このような現実的なあるいは精神的な上り下りの実践を通して人間は現実に対する認識を深めていく。そうなると、「世界を深く理解したい」という欲求がまず存在し、それから現実に向かう人間の探求がはじめて始まるかのように主張する人たちが現われてくるのも理解できないことではないけれども、この欲求を人間に生ぜしめたものは何かということをつきつめて考えていけば、まずはその端初として世界・現実に向かいあっている現実の人間の姿が見えてくるであろう。対象のない意識は何ものでもない。対象がなければ何ごとも始まらないのである。

さて、概念が先か言葉が先かという問いは、これも物質が先か精神が先かという問いと同様の構造をもっている。個々の過程の一部を切り取ってみれば、概念が先で言葉が後という場合もあるし、言葉が先で概念が後という場合もある。しかしながら対象のない認識が原則として存在しないのと同じように、ラベル(シニフィアン)だけあって概念(シニフィエ)のないシーニュは原則として存在しない。逆に個々の人間にとって認識のない対象はありうるし、ラベルのない概念は存在する。世界は多様であるから、そこに存在する物のどのような側面をとらえて概念化するかは人間の恣意にまかされている。また概念化したのちにそれにどのようなラベルを貼るか、あるいはラベルを貼らないかというのも自由であるし、一つの物をさまざまな側面からとらえてそれぞれの側面から抽出した概念をもとにして一つの物に複数のラベルをつけるのも人間の恣意にまかされている。しかしながら一旦貼られたラベルはそれが個人の使用を離れて広く用いられるようになるとそれは必然的に社会性を帯びることになる。それゆえひとたび社会的に認知され言語規範のうちに取り込まれたラベルはそれを恣意的に運用することは非社会的な行為でありコミュニケーションの妨げになる(もっとも、言語規範に従わなかったからといって罰せられることはない。話が通じなくて困るのは本人だからである。しかし限られたコミュニティの中ではメンバー間の親密度を増すために恣意的にジャーゴンを使用することもある。また、詩人や作家が表現の幅や奥行きを増すためにあえて言語規範にさからった表現を行なうことは許容されているし、コマーシャルにおけるコピーなどではわざとそのような手法が用いられることも多い)。

閑話休題。ふたたび概念と言葉(ラベル)の先後関係に話を戻す。「普通の人間は色や匂いについてあまり多くの言葉をもっていない。だから微妙な差が分からない。似たような色や匂いは同じものにしてしまう。しかし、色や匂いの専門家は、膨大な数の違う色や匂いを認識する。これは、そう言う語彙を持っているのだろうか。もしそのような違いを表現する言葉なしに、概念だけでその違いをつかんでいるとしたら、これは驚きだがどうなのだろうか。」という秀さんの言について私見を述べるなら、概念のみあってラベルのない認識というのは大いにありうるし、その道の専門家はまさに「概念だけでその違いをつかんでいる」のだと私は思う。言葉で伝えることのできない微妙なニュアンスというのはそういった概念をいい表しているのであろう。

「思考言語」について。「言語と呼ばない方が自然な気がするが、言語と呼びたくなる人が大勢いると言うことの理由はなぜなのだろうか。」という疑問の答は、おそらくこういうことではないだろうか。思考しているときには概念そのものをあやつることはほとんど不可能であるから人間は音声や映像その他の表象が結びついた概念(つまり観念)を運用している。その場合、対象がはっきりとした言語で表現できるものならば当然音声表象のラベル(シニフィアン)を運用する方が運用が楽だし思考内容も明瞭になるので、無自覚のうちに人間は頭のなかで音声表象として再現されたシニフィアンを多用する(その際には言語規範の媒介が必要)ようになる(というより思考をするときには人間は社会的に通用するラベルを習慣的に運用するようになる。逆にいえば、人間が思考に用いる概念のほとんどはラベル(シニフィアン)がついたものになってしまう)。特に書き言葉に接して読書する機会が多い人間は黙読するという経験を重ねる結果、そういう習慣が自然に身につくであろう。人間が言語(langue)にしばられてしまっているといわれるのは、このように思考の際に用いる観念が自覚的にせよ無自覚的にせよ言語規範の媒介を受けたシニフィアンと結びついたものに限定されてきてしまうことをいっているのであろう。そのようなわけで人間の思考はその大部分がシニフィアンと結びついた観念を運用したものになるから、脳内における音声表象のつながりは人間にとっては表現された音声言語の再生と同じように頭の中で聞こえている(現実に声を出しているわけではないが――時には夢中になって無自覚のうちに声に出てしまうこともある)。脳内におけるこの音声表象のつながりが頭の中であたかも自分が言語を話しているかのように思えるために「思考言語」という言い方や「内言」といった言い方がされるのであろう。

最後に、私はソシュール的な発想のすべてを否定しようとは思わない。それは人間の言語活動というものについての綿密な観察と深い洞察との結果生みだされたソシュール独自の学だからである。そして、ソシュールの剔出した「言語(langue)」は言語表現・受容および思考における不可欠の媒介として存在しているし、三浦の言語学においてもそれは言語が負っている社会的な性格を成立させる規範としての厳たる位置を占めている。「言語(langue)」=言語規範なしには人間は表現することも、思考することもできないし、社会において他者との間に自在な交流を行なうことさえできない。

しかし、ソシュール言語学にはいくつかの逸脱がある。それは人間の意識と言語についての歴史的な考究が欠けていることからくる逸脱である。すでにマルクスはいっている。


言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である」「言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する」「観念、表象、意識の生産はまず第一に人間の物質的活動および物質的交通のうちに、現実的生活の言語のうちに直接におりこまれている(『ドイツ・イデオロギー』)

このマルクスの言は心して読まねばならない。意識と言語とはその形態が違う。心に描いた献立と現実にできあがった料理とが違うように。にもかかわらず言語は意識の現実的・実践的形態なのである。意識が自然の最高の産物(しかしそれを作ったのは人間の社会と人間の意識自身、そして言語である)であるのと同様に、言語は人間社会と人間の意識・肉体が作り上げた最高の産物であろう。つまり、人間の歴史においても個人の歴史においても意識と言語はたがいに作りあっているのである。意識なしに言語はありえず、言語なしに意識はありえない。マルクスはそういっているのであろう。