弁証法的なとらえ方


〔2006.07.04記〕

すべてのもの・存在は物質的なものも精神的なものも含めてその端初は「物自体」つまり、即自的な存在である。しかしそれはその内に運動(他のもの・存在と関連すること)を孕んだ存在であり、運動の最中においてはそれはもはや自体的な存在ではありえない。物自体が認識できるか否かという問いは、世界を「できあがった事物の複合体」として固定的にみる形而上学的な問いである。

フォイエルバッハ論』「四 弁証法唯物論史的唯物論」から


……世界はできあがった事物の複合体としてでなく諸過程の複合体と見られなければならず、そこでは外見上固定的な事物も、われわれの頭脳のうちにあるその思想的映像である概念におとらず、発生と消滅の不断の変化のうちにあり、そしてこの変化のうちで、あらゆる外見上の偶然事や一時的な後退にもかかわらず、結局は前進的な発展がおこなわれているという根本思想――こうした偉大な根本思想は、とくにヘーゲル以来、普通の意識にまで浸透しているので、こうした一般的な点ではおそらくほとんど反対がないであろう。……人が研究にあたって常にこうした観点から出発すれば、最後的な解決とか永遠の真理とかいうものへの要求は、きっぱりと消えうせてしまう。人は、すべての獲得した知識が必然的に制限されており、それが得られたときの事情によって制約されているということを常に自覚している。他方また人はもはや、真理と誤謬、善と悪、同一と差異、必然と偶然というような、今なお一般に行われている古い形而上学では克服できない諸対立に威圧されはしない。人は、これらの対立が相対的な妥当性しかもっていないこと、現在は誤謬と認められていることにも、真理の側面があり、そのためにかつては真理として通用しえたのだということ、必然と主張されているものが偶然事のみから組立てられており、偶然といわれているものが、その背後に必然をひそめている形式であること、等々を知っている。エンゲルスフォイエルバッハ論』松村一人訳/岩波文庫