〔弁・抜〕人は多かれ少なかれ「観念論者」である


フォイエルバッハ論』「二 観念論と唯物論」から


人間を動かすものはすべてその頭脳を通過しなければならないということは、どうしても避けることができない。飲み食いでさえそうであって、それは頭脳によって感じられた飢えと渇きにはじまり、同じく頭脳によって感じられた満腹に終るのである。人間にたいする外界の諸影響は、人間の頭脳のうちに表現され、さまざまの感情、思想、衝動、意思決定として、一口でいえば「観念の流れ」として反映され、そしてこうした形をとって、「観念の力」となる。ところで、こうした人間が一般に「観念の流れ」を追い、そして「観念の力」が自分に影響をあたえることを認めるという事情――そうしたことが人間を観念論者にするとすれば、ある程度正常に発達した人間は、すべて生れながらの観念論者であって、そうなると、およそ唯物論者というものがどうして存在することができよう。エンゲルスフォイエルバッハ論』松村一人訳/岩波文庫