鏡と自己分裂


〔2004.04.09記/2005.01.20修正・追記〕

鏡の話。子猫の目の前に鏡を置いてみると、はじめのうちは鏡に映っているものに前肢で触ろうとしたり、顔を近づけてみたりしますが、やがて鏡の後ろに回ってそこを覗きます。しかし何もいないことが分かると再び鏡を覗き込み、また後ろを覗くといったことを繰り返します。そのうちに飽きてしまいますがまた日をおいてこれを繰り返すうちに鏡に映っているのは自分だということに子猫は気づきます。二三度そんなことを繰り返すともう子猫は鏡に興味をなくしてしまいます。そして成長した後も鏡に興味を示すことはありません。

若い頃の私はよく鏡を見ていました。まあ私に限らず若いうちはみなそうなのだと思います。で近ごろの私はといえば、あまり鏡を見なくなりました。朝起床して洗面をした後か、外に出るとき、そして仕事を始める前くらいでしょうか。洗面のときは別にして、要するにひとと会うのに恥ずかしいすがたを見せたくないからなんですね。つまり私にとって鏡とは他人の目の替わりをしてくれるものです。正確にいうと、直接自分の目で見ることのできない自分の顔を鏡を媒介にして見ているということです。

ここで問題なのは見られている自分と見ている自分の関係です。鏡に映っているのは実は鏡の前にいる現実の自分なわけですから単純に考えれば、見ている自分が鏡の前にいて、見られている自分は鏡の向こうにいる。この構図は独り言の場合と同じです。

この心理を考えてみると、見られている私(鏡の向こう側にいる自己)は観念的に対象化された自己であり、それをもう一人の私がこちら側から見ているという図式です。そして観念的な対象を見ている私もやはり観念の中にいるはずですから、鏡のこちら側で鏡の向こう側にいる自己を見ている私は実は現実の自己ではなく、現実の自己から観念的に分裂した自己なのだということになります。

このことをさらによく観察してみます。

鏡に映った自分の姿(自分の映像)は、鏡を見ることによって精神的な模像(表象・概念)として自らの脳内に生じます(知覚される)。つまり鏡に映った自分の映像は認識の側から見ると脳内に生じている精神的な模像なのです。その模像が現実の自分であると考えるときには、その模像を媒介にして観念的な自己分裂が起こっています。このときの意識(認識)としては、鏡に映った自分の映像(虚像)の位置に精神的な模像である自分(観念的に対象化された自己)がいて、それを鏡のこちら側の現実の自己の位置にいる観念的に分裂した自己(主体)が見ているという形になります。簡単にいえば、観念的に対象化された自己の姿を、観念的に分裂した自己(主体)がいわば他人の目で見ているということです。しかし鏡から目をそらしたり、鏡の前から他の場所に移動したりするとこの観念的な自己はもとの現実の自己に復帰します。

人間は鏡を介したこのような経験を重ねていくうちに知らず知らずのうちに、鏡がなくても自分を客観的に観察する――観念的に他の人間の立場に移行して観念的に対象化された自分を観察する――ことができるようになります。想像の世界の中で鏡をみることができるようになるわけです。そうしてみると、自我が目覚める10代のころによく鏡を見るというのも何かしら意味があることかもしれません。

そして、観念的に他人の立場に移行した自分が観念的に対象化された自分に話しかけている形をとる独り言というのも、対象化された現実の自分を他者の視点から客観的に観察して叱咤激励しているわけですから、そのことを自覚している限り人間として極めて自然で健全な姿なのでしょう。

(補)鏡に写っている自分の姿はあくまでも単なる映像に過ぎませんから、そのことを強く意識しながら冷静に科学的な目で映像を観察する場合には観念的な自己分裂は起こりません。