鏡と自己分裂(三浦つとむ)
〔2004.06.21記〕
購入したばかりの『三浦つとむ選集』の第一巻『スターリン批判の時代』に鏡に関する興味深い論考がありましたので載せておきます。以下引用は「スターリンの言語学論文をめぐって」(p.59)から。なお下線は私がほどこしたものです。
まず、三浦はマルクス『資本論』第一巻の「価値形態」の節にある次のようなマルクス自身の註を引用します。
「ある意味では、人間も商品と同じことである。人間は、鏡をもって生れてくるのでもなく、また、吾は吾なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る。人間たるペーテルは、自分と同等なるものとしての人間たるパウルに関連することによって、初めて、人間としての自分自身に関連する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウル全体がまた、彼のパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態としての意義をもつのである」
これについての哲学者たちの解釈が間違っているという指摘をしたあと、次のように続けます。
「マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があるということを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。これこそが生きた現実の人間の認識論なのである。対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば、人間の観念を映し出すもの(表現)もある。「他の人間という鏡に自分を映す」事実を正しくつかまなければ、人間が自己を識(し)る認識、すなわち主体的自覚についての正しい理論は出てこない。それではドイツ古典哲学の継承など、思いもよらぬことなのである。
話を分かりやすくするために、普通のガラス製の鏡を例にとろう。顔を近づければ、その上に顔がうつる。これは映像であって、鏡の中に顔があるわけではない。だが、われわれは、そこに顔があるもの、自分がいるもの、と考えることもできるし、現にそう考えている。自分はほかの人間(たとえば恋人)から見てどう見えるだろう、などと考えながら鏡に向かうのは、誰でもやっていることである。鏡は、ほかの人間の眼の位置に自分を置いて自分自身を眺めることを可能ならしめる、そういった性質の道具である。
鏡の中に自分がいると考えても、鏡の外の自分が現実に自分であることにはかわりがない。しかし自分自身の像を現実の自分であるかのように考えている以上、観念的には、現実の自分に現実の自分としての資格を持たせたままそれから分離して、恋人その他の立場に移行していることになる。このように、現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである。ポオも弁証法文学の傑作「盗まれた手紙」において、丁半勝負の上手な少年と、盗まれた手紙の奪還をえがき、相手の智力に自分の智力を一致させ、観念的に相手の立場に移行して考えることがいかに重要であるかを喝破した。
観念論者は、自覚をとりあげてこの問題にぶつかったのだが、観念的な主体の分裂を移行として正しく扱うことができなかった。両者を混同することによって、鏡の外の現実の自分までも観念的なものとして非現実化させてしまったり、あるいは観念的な自己をきりはなして、最初からこれが現実の自己の外にあるものと考え、これこそ本源的な自己、人間を人間として自覚させる人間以外の自己、純粋精神、普遍的な自我、神、として神秘化させたりした。青年マルクスは、ヘーゲルを分析しながら、この問題を人間実践のなかで検討し、はじめて正しい解決を与えることができた。『経済学・哲学草稿』はそのことを具体的に立証している。実に、この研究あってはじめて『資本論』の価値形態の分析も可能になったのだし、この基礎的研究の片鱗が注釈のかたちでヒョイと顔をのぞかせることにもなったのである。
このマルクスの『草稿』は田中吉六氏によって理論的に再発見されたのだが、その重要性が強調されるまでわたしは関心をもたず、全然読んでいなかった。わたしは「観念的な自己分裂」とか、「夢の外の作者と夢の中の作者」という言葉をつかって論文を書いていたが、『草稿』を調べてみたらその問題について次のようにのべられてあるのを発見した。
「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」