独り言と自己分裂


〔2004.03.13記/2005.01.22修正・追記〕

ことばというのは聞いてくれたり、読んでくれたりする人に向かって発せられるもの。ここにこうして書いているのも誰か読んでくださる方がいるだろうと思うからです。ことばに限らず表現というものはそういう性格をもったものとして生まれたのでしょう。五官では知ることのできない心の思いや自分の考えを他者に伝えたい、そしてまた他者が心に抱いている気持ちや他者の持つ知識を自分のものとしたい…。そういう願いや望みが原動力となって自分の頭の中にある思いや気持ち、考えや知識などを感性的な物質的な形として創り出したもの、それが表現なのだと思います。

その点、独り言は聞いてくれる他人がいないわけで、相手は自分自身。話している自分と聞いている自分、どっちが主役でしょうか。ここは三浦つとむのいう主体の観念的自己分裂という話になるのですが、まずは固いことは抜きにして、話している方が主体であって(話すということがなければ聞くことはできないから)、話し手である自分が聞き手である自分を頭の中のイメージとしてつくりあげ、その自分のイメージに話しかけているのだと考えておけば、たぶんそれほど間違ってはいないでしょう。

それで、実際に独り言を観察してみると、聞き手である自分もただ聞いているだけではないということに気がつきます。主導権を握っているわけではないけれど、話し手のことばに納得したり、反発したりと、実際に声に出して話しはしませんが、内心の微妙な動きがあるのです。だから独り言というのは、かなり一方的ではあるものの自分がつくり出したもう一人の自分(内心の声)と対話しているわけです。ドラマなどではこのあたりがおおげさに描かれたりして、内心の声が主導権を握ることがありますが、これは実は内心の声ではなく頭の中のイメージだったはずの自己がいつのまにか主体的な自己にすりかわっていて、それまで主導権を握っていた自己が逆に頭の中のイメージになるという形で、いわば主客逆転が起こったのではないかと思われます。そう考えると独り言というのはけっこうダイナミックな認識の運動かもしれません。

また、話しかけている自分はものごとを冷静に判断することができそうな自分ではない他の誰かや客観的な目で冷静に自分を分析しようとしている自分…のような現実の自己から他者の立場に移行した自己であり、この<現実の自己から他者の立場に移行した自己>が<現実の自己から対象化された自己>に話しかけているように見えます。この<他者>は実在する具体的な誰かというわけではなく、これまでに自分が出会ったり、本やらテレビやらで読んだり見たりしたことのある人たち、こういう人たちをモデルにしてつくりあげた主体です。<他者の立場に移行した自己>が<対象化された自己>に話しかける、それが独り言の構図なのだと思います。