言語と内言――言語の意味

〔2006.12.23記〕

「連辞関係」から「価値」が生まれるというソシュールの主張がどういうものであるかがある程度はっきりしたので(ソシュールの「言語」――「言語単位」と「価値」)、以前書いた「内語」「内言・思考言語」の再規定(2006/10/23)という記事への補足として言語と内言との関係、そして言語の意味について簡単に書いておく。

現実の事物や事物相互の関係(繁雑になるので以後は単に「現実のものごと」と表記する。また、この現実のものごとには意識内に再現前している表象や概念も含まれる)を概念的に把握した認識が個別概念である。個別概念は現実のものごとから表象・抽象された知覚・表象であり、そのものごとの一定の普遍的な側面についての認識つまり普遍概念を同時にともなっている(つまり個別概念は現実のものごとがもつ特殊性とある種の普遍性とを同時に統一的にとらえた認識である*)。したがって個別概念は特殊性の側面を通じてその現実のものごとと明確なつながりを保っている。簡潔にいえば、個別概念は現実のものごとの反映である――三浦つとむはこのことを「認識は現実を映す精神的な鏡である」といっている。ただし後で触れるように〈鏡〉がいつでも対象を正しく反映するとは限らない


* たとえばあるものを見て、それが「小さな動物」であるとか「白い犬」だとか「ボールを追いかけている子犬」であるとか「隣家の飼犬のチビ」であるとかのように個別的特殊的な認識と同時に概念的な把握がなされるような認識を個別概念と呼ぶのである。説明のために言語化して示したが認識として存在していることが重要であって、それが内言化あるいは言語化されているかどうかは関係がない。むしろその必要がない限りたいていの個別概念は内言化・言語化されない。個別概念普遍概念語概念の媒介によってその都度形成されるものだが、もとをたどれば普遍概念や語概念は繰り返し形成される個別概念から経験的に抽象されて形成されるのであり、この相互媒介関係を通して普遍概念や語概念の内包はより明瞭で確かなものになり、普遍概念・語概念とつながるその外延はより豊かなものになりその範囲も拡がるのである。

言語における個々の語は、個々の個別概念が語規範の媒介を経て表現されたものであるから、語はその語と連合した個別概念を介して現実のものごととのつながりをもっている。つまり、表現された語には語規範に媒介された個別概念が連合しているだけではなく、その個別概念を介した現実のものごととのつながりがその背後に(これもまた媒介関係として)存在しているのである。

言語はこのように、複雑な媒介関係と過程的な構造をもった表現であり、個々の具体的な言語は表現者が概念的に把握した意識・認識を媒介関係として背後にもった表現なのである。三浦はこのことを「言語は認識を映し出す物質的な鏡である」といい、マルクスは「言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫、p.38) といっている。また、言語表現がこのような複雑な媒介関係・媒介過程を通じてなされることを、言語過程説では〈対象→意識(認識)→表現〉という簡単なシェーマ図(スキーマ図・表象図・構造図)で表わしている。

ソシュールは、思考が(現実のものごととのつながりをもった)個別概念を運用してなされる内的な実践であることを十分には認識していなかったから、思考過程を意識内だけの閉じた実践つまり「ラング=連辞関係」という特殊な形態としてのみとらえた。また、以前〈「内語」「内言・思考言語」の再規定〉に書いたように、話し言葉においては個別概念は内言化されることなくたいていはそのまま言語化され表現されることにもソシュールは気がつかなかった。これに対して書き言葉は思考過程を媒介してなされることがほとんどであるから、個別概念は一旦内言化された上でその内言が言語として表現されるのが普通である(推敲という実践は内言を媒介としてなされる。話し言葉でも内言化されないにせよ、似たような内的な反省が行われることがある)。このように、ソシュールのいう「連辞関係」つまり「内言」「思考」では、現実のものごととのつながりをもった個別概念という視点がすっぽりと抜け落ちてしまっている上に表現という視点を意識的に排除している。したがって、「連辞関係」から「言語単位=内語」の「価値」が生まれるというソシュールの主張を鵜呑みにした構造言語学では、表現された言語においては、個々の語が個々の個別概念と連合していて、個々の語が個々の個別概念とつながった現実の個々のものごとを表現しているということにまで考えが及ばないのである。しかし、ソシュールの「言語」――「言語単位」と「価値」で書いたように、ソシュール個別概念の存在とそれを契機とする内言の成立について不明確ではあるが気がついていたように思われる。

時枝誠記から三浦つとむへと批判的・発展的に継承された言語過程説では、上のように言語は過程的構造を背後にかくし持った表現であるととらえる。ここから導き出される言語(語)の意味は、単純に事物そのものでも、表現者の認識そのものでも、ましてや受容者のとらえた認識そのものでもない。言語の意味は事物そのものに直接つながっているのではなく、表現者の認識つまり個別概念を介して現実の事物につながっている間接的な関係である。しかもその関係は言語規範という規範意識に媒介された二重に間接的な関係なのである。この二重の関係をたどることによって受容者は表現された言語の意味を受け取るのであるから、構造言語学のように単に「連辞関係」だけから意味を見つけ出そうとしてもうまくいかない。「連辞関係」の背後に存在している表現者の認識つまり個別概念というもう一つの間接的な関係をたどることなしには言語の意味はつかみ取れないのである。

表現者の認識つまり個別概念をたどるには、受容者には表現者の立場に移行して表現過程を観念的に追体験するという実践が要求される。受容における追体験という観念的なこの実践はきわめてありふれたものであるから、たいていの人間は無自覚のうちにこれを行なっている。しかし、無自覚な実践はおうおうにして不十分であり、他者の言や書かれた文章を誤解することも多い。それゆえに自覚的な追体験の重要性が、これまた無自覚のうちに主張されるのである。話をよく聞けとか、文章をよく読めとかいわれるのはこの追体験を自覚的にせよということなのであるが、そう主張している者自身がそれが表現者の立場に立った追体験の実践であることを十分に自覚していないので、たいていは文脈をたどることつまりいわゆる「連辞関係」をたどることのみに短絡してしまうのである。

また、表現者が受容者の立場を十分に考慮して受容者の立場に立って行われる言語表現においては、表現者は受容過程をすでに明確に想定しており、受容者がその意味をたどりやすいような言語表現がなされるのであるから、想定された受容者以外の他者も言語の受容に当って、想定された受容者の立場に立つことを要求される。たいていの言語表現は自覚的か無自覚的かの違いはあれ、多かれ少なかれそれを受容するものを想定ないし前提してなされるものである。したがって、言語の意味をつかみとるにはこのような二重の追体験もまた必要なのである。

表現された言語は、表現者の認識を介して現実の事物とつながっており、また言語規範を介して表現者の認識とつながっている。さらに言語は受容する他者を前提として表現されたものであり、それを受容する者の認識過程を経ることを期待してなされるものである(受容過程においても言語規範の媒介が必要である)。世に流布しているさまざまな言語観は、それぞれ現実の事物や表現者の認識や受容者の認識のいずれかとなんらかのつながりをもったものとして言語を位置づけているが、実際には言語はそれらすべてとつながりをもっているのであるから現実の認識過程・表現過程・受容過程すべてについての考察なくしては言語の真の姿を知ることはできない。時枝誠記三浦つとむの言語過程説はそのことを主張し、認識過程・表現過程・受容過程すべてにわたる言語のありかたを分析し考察したものである。言語過程説における三浦の意味論が関係意味論と呼ばれるのは、言語が、認識過程・表現過程(・受容過程)における反映・媒介関係を内に含む過程的な構造を背後に持ったものとして存在していて、表現された言語の意味はこのような過程的構造の反映・媒介関係を受容過程においてたどることによってはじめてとらえられると主張しているからである。

構造言語学は認識過程を分析することなく、受容過程における「連辞関係」の成立を表現過程に直結させ表現過程を受容過程に還元してしまっている。表現における内的過程においては受容者の立場に立った追体験がなされ、そこでは現実の事物の認知・認識を元にして現実に対するとらえ返し(反省や推敲)が行われることは確かであるが、そのことは人間が現実・世界を「言語」によって解釈していることを意味しない。それ以前に現実や世界は認知され認識されているのであって、「言語」による「分節」というのはそれらの認知・認識の内言化あるいは言語化をこむずかしくいい換えたものにすぎない。単純化していえば、内言・言語は、現実の反映である意識の反映――反映の反映(鏡像の鏡像)――なのである。

なお、現実の事物の認知・認識を元にした現実に対するとらえ返しは、観念的自己分裂を介した現実に対する人間の科学的実践の重要な一部であり、現実の複雑な現象についての正しい認識はこの実践の繰り返しなくして得ることはできない。マルクスが「人間の思考に対象的な真理が属するかどうかという問題は、理論の問題ではなくて、実践の問題である。実践のうちで人間はその思考の真理を、言いかえれば、その思考の現実性と力、此岸性を証明しなければならない。実践から遊離している思考が現実的であるか非現実的であるかという論争は、まったくスコラ的な問題である。(「フォイエルバッハにかんするテーゼ」『フォイエルバッハ論』エンゲルス/松村一人訳・岩波文庫所収、p.87) といっているのはこのことである。最初のところで書いた表現に即していえば、認識という精神的な鏡が対象を正しく反映するかどうかは観念的自己分裂を介した内的な実践と、現実に働きかける外的な実践の質如何にかかっているのである。このことは言語の表現および受容についてもいえることであって、認識した内容を正確に言語として表現できるかどうか、あるいは言語の内容・意味を正しく理解できるかどうかは内的・外的な実践の如何にかかっている。

 個別概念が介在する表現⇒受容過程

 〈対象→意識→表現〉過程における認識の発展