“langue” と “langage”

〔2006.12.19記・追記〕

ネット検索をしていると、ときに面白いものや思いがけないものに出会うことがある。

昨日見つけたのは「翻訳論の出発点」(山岡洋一)というページである。そこには「資料1フランス語原著の日本語訳と英語訳」として、『一般言語学講義』(小林英夫訳) の一部が、英文訳と並べて引用されている。私はフランス語の原文を知らないし、辞書を引かなければそこに引用されている英文を理解することができないほどの貧弱な英語力しか持ち合わせていないが、小林訳と英文訳とが微妙に異っていることは分かるし、引用者である山岡洋一さんが「この翻訳を読むと、たいていの人は日本語訳より英語訳の方が分かりやすいという印象をもつのではないだろうか」と書いていることにも妙に納得してしまった。フランス語から英語に直すのと、フランス語を日本語に翻訳するのとでは後者の方が大変であろうということは当然であるにしても…である。

フランス語の “langue” が英文では “language” となっているから、ソシュールの “langue” は「母語」とか「ロシア語」というときの「語」にあたるものだろうと推察できる。また、“langage” は英文では “human speech” あるいは “speech” と訳されているから、「話すこと全般あるいは人間(人類)が持っている話す能力」をいっていると解される。

最初の英文訳から私が読み取ったのは以下のことである。

(1) “langue” は “langage” の限定された一部分にすぎないが、それは本質的な一部分である。

(2) “langue” は、(人間の)“langage” 能力によって社会の中で作り出されたものであり、社会の構成員たちがその “langage” 能力を働かせるのに必要不可欠な慣習(取り決め)として社会(共同体)が採用し、集積したもの(諸慣習)である。

(3) “langage” は総体としては多面的であり雑多である。つまり “langage” は身体的・物理的、生理的、心理的な各領域に同時にまたがっており、個人にも社会にも属している。

(4) “langage” には単一性(統一性)と呼べるようなものが見つからないから、それは人間的事象のいかなるカテゴリーにも収めきれない。

これはこれで一つの収穫である。ソシュールが「ラング」を慣習的なものつまり規範的なものと認識していたことが分かったからである。なぜなら「制約」「制度」という語には必ずしも規範の含意はないが、「慣習(取り決め)」には規範の意味が含まれるからである。そしてソシュールも “langue” と “langage” とが互いに他によって存在するという一つの矛盾を認めていることも重要である。それは “langue” によって “langage” 能力が発現し、その能力を行使できるようになるのであり、しかも “langue” は “langage” 能力の行使によってはじめて生み出されるという矛盾である。このことは、言語表現および言語受容は言語規範の媒介なしには不可能であり、また社会的にも個人的にも、言語表現および言語受容の実践を通じてしか言語規範は生まれないし、獲得もできないことを意味している。そして、曖昧な表現とはいえソシュールもまたこのことを認めていたということなのである。

なお、「翻訳論の出発点」というのは『翻訳通信 ネット版』というサイトに収められているアーカイブ記事の一つであることが分かった。このネット版の『翻訳通信』には興味ぶかい記事が載っているようである。また、『翻訳通信』のバックナンバーが pdf と doc の両タイプで読める。けっこう面白いサイトである。

〔2006.12.19追記〕

『翻訳通信』には pdf, doc タイプのバックナンバーだけでなく、バックナンバーから連載記事がピックアップされている。これらは 普通の html だから手軽に読める。今日になっていくつか読んでみたがなかなか面白いことが書いてある。一読をお薦めする。