概念は「言語」に先立つ(4)


〔2006.09.06記〕

概念という語の概念について、私と認識を異にする方が多いのに驚いている。それだけソシュールの影響が大きいということだろう。しかし、ソシュールが規定する以前から概念という言葉は存在しており、語と結びついているかどうかは概念の必要条件ではなかった。語と結びついていない概念が自分の意識の中に存在しているかどうかは、注意深く自省してみれば自ずから明らかになる。

参考のために手持ちの辞書から「概念」の項を引用する。


CD−ROM版『広辞苑第四版』岩波書店

がいねん【概念】:〔哲〕(concept フランス・イギリス・Begriff ドイツ) (1)事物の本質をとらえる思考の形式。事物の本質的な特徴とそれらの連関が概念の内容(内包)。概念は同一本質をもつ一定範囲の事物(外延)に適用されるから一般性をもつ。例えば、人という概念の内包は人の人としての特徴であり、外延はあらゆる人々である。しかし、個体(例えばソクラテス)をとらえる概念(個体概念・単独概念)もある。概念は言語に表現され、その意味として存在する。概念の成立については哲学上いろいろの見解があって、経験される多くの事物に共通の内容をとりだし(抽象)、個々の事物にのみ属する偶然的な性質をすてる(捨象)ことによるとするのが通常の見解で、これに対立するものが経験から独立した概念(先天的概念)を認める立場。(2)…。

大辞林三省堂・1988年発行)

がいねん【概念】:(1)…。(2)〔哲〕( concept; ドイツ Begriff)事物が捉えられたり表現されるときの思考内容や表象、またその言語表現(名辞)の意味内容。(ア)形式論理学では個々の事物の抽象によって把握され、内包(意味内容)と外延(事物の集合)で構成されているとする。(イ)経験論・心理学では、経験されたさまざまな観念内容を概括する表象。(ウ)理性論・観念論では、人間の経験から独立した概念(先天的概念・イデアなど)の存在を認め、これによって初めて個別的経験も成り立つとする。

『日本語大辞典第二版』講談社

がいねん【概念】:(1)…。(2)論理学で、個々の対象や事象から、共通の本質的な特徴をとりだしてまとめた一般性のある観念。concept

『大漢語林』(大修館書店)

概念ドイツ語 Begriff 英語 conception の訳語。個々の事物から共通な性質や一般的性質を抽出して作られた観念。〔井上哲次郎、哲学字彙〕

『国語大辞典第一版』小学館

がいねん【概念】:(ドイツ語 Begriff の訳語)個々の事物から共通の性質や一般的性質を取り出してつくられた表象。

要するに概念とは、ある対象を〈一定の種類に属するもの〉として把握した認識である。いいかえると、個々の対象から〈ある一定範囲の対象に共通するある一定範囲の属性〉を抽出して形成した心像が概念である。すなわち概念は基本的に対象の知覚表象や想起された表象から抽象されて形成されるものである。

個々の人間は「言語langue」を構成する単位としてシーニュを意識のうちに持っているが、シーニュにおいてシニフィアンと連合しているシニフィエをその個人はどうやって形成したのであろうか。

シニフィエになる以前に、語と結びつくべき概念(語概念)が対象から抽出されていなければシーニュを形成することなどできないのである。このことはシニフィアンについてもいいうる。シニフィアンになる以前に、語の音声から「あるまとまった音韻」が抽出されていなければシーニュを形成することはできない。

ところで、人間が何かを認識しているときは、その対象がなんであれ、その認識の内容は何らかの表象(視覚表象・聴覚表象・嗅覚表象等。多くはそれらが複合した表象である)とそれから抽出した概念とが結合した形態をとっている。そしてその概念は対象からその都度形成されるものである。何の対象も手がかりもなく概念がいきなり湧いて出ることはない。語観念(シーニュ)は必らず媒介的に喚起されるという特殊な性質を持ったものではあるがこれも表象と概念とが連合した形態をとっている。人間の認識や思考はこのようにして形成された概念を媒介にしてなされるのである。そしてその対象が具体的・個別的なものごとである場合には、それについての特殊性の認識(ある特殊な種類に属しているという認識)も同時に概念化されている。

今、私の目の前にはコップに入ったみかんジュースがある。この文章を書く前にそれを一口飲んだのだが、そのときの私の意識の中を覗いてみよう。手を伸ばそうとする私は「コップに入ったみかんジュース」を認識している。それは「底のある円筒形をしたガラス容器の中にある、果実の汁の匂いがする水よりは粘り気のあるオレンジ色の液体」というような認識であり、/コップニハイッタミカンジュース/ という音韻とは結びついてはいないけれども、「コップ」「に」「入っ」「た」「みかんジュース」という関連をもった概念群として把握されている。しかもそれと同時に「家の台所から持ってきたコップ」「に私が注いだ」「冷蔵庫の瓶の中にあったみかんジュース」という特殊性の認識も存在している。

しかし、「コップに入ったみかんジュース」を飲むことは私にとっては何度も経験していることであるから、「コップ」「に」「入っ」「た」「みかんジュース」という概念群は、「コップに入ったみかんジュース」というひとまとまりの複合概念として認識されているのである。「家の台所の茶だんすにあるコップ」とか「冷蔵庫の瓶に入ったみかんジュース」なども実際には複合したひとまとまりの概念として認識されている。

このことは「コップに入ったみかんジュース」という互いに関連した概念群を表わす単一の語は存在しないけれども、そのような複合概念は存在しているということを意味する。そして、目の前にある液体の属性の中から「ある一定範囲の属性として抽出した」概念が「オレンジ色の液体」なのか「飲み物」なのか「みかんジュース」なのか、それとも「コップに入ったみかんジュース」なのかということは把握の仕方の相違であって、複合概念も把握の仕方次第では単一の概念となりうるのである。どの本で読んだか忘れてしまったが、アイヌ語には「その上に雪が降り積もっている干しシシャモ」(記憶に頼っているので正確ではない)という複合概念を表わす単一の語があるという。この場合は複合概念が単一の概念として把握されているわけである。

というわけで、日常生活において人間は、対象から抽象した概念を媒介として自分の周囲や世界を把握し認識しているのである。概念は意識にあってはありふれたものであり、人間の認識にとっては本質的な欠くことのできない存在である。