ソシュールの「言語」(2)


〔2006.07.10記〕

秀さんと私との間で理解が分かれた「言語が現われないうち」あるいは「言語の出現以前」という『一般言語学講義』にあるソシュールの表現について、その表現のある文とその前後の文章とをあらためて読んでみると私の理解もずれていたようだ。ソシュールのいう「言語」が langue を表しており、意識における langue「言語」の出現以前を意味していることはたしかだが、人類の歴史上において langue「言語」が生れる以前のことをいっているわけではないようだ。

それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものは無い。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」でいわれている「思考内容」ないし思想というのは人間一般のあるいはソシュール自身の意識内部における観念や概念の総体のことをいっているようである。それもすべての観念や概念がいまだシニフィアンと結びついていない状態、つまり langue「言語」という規範認識が存在していないようなそういう観念や概念の総体のことである。ソシュールはそのような観念や概念の総体はまるでまだ星の誕生していない「星雲」のようなものだといっている。

そしてその混沌状態の「浮動的な王国=茫漠たる観念の無限平面(A)=思考内容」と「音の・それにおとらず不定のそれ(B)」とが隣接している領域、そこが langue「言語」の働く「分節の領域」であり、langue「言語」は、そこにおいて「二つの無定型のかたまり」である思考内容との仲を取り持って、(それらが内含していた区分にもとづいて)それらを分節し「それらのあいだに(自身が自身を体系化しながら)成立しつつ,その(観念と音との連合した)単位シーニュをつくりあげ」るわけである。

というわけで、 『一般言語学講義』第II編第4章「言語価値」§1「音的資料へと組織された思想としての言語」におけるソシュールの主張が、langue「言語」がまったく存在しなければ人間の思考内容は星雲のように混沌としており、langue「言語」はその混沌状態の思考内容の内部で規範的な記号の体系を自ら形づくり、思考の混沌状態に秩序をもたらすのである、というものだということがわかった。この節のタイトルは、 langue「言語」において、思考が混沌の状態から分節され同じく分節されたシニフィアンに対応する形でその音的な資料であるシニフィエとして連合すること、そしてそれらの連合が langue「言語」を体系として成立させるということを表現している。

先の稿で書いたように、人間の意識の内部にはシニフィアン以外のさまざまな表象のラベルがついた多くの観念や概念が存在し、それらが概念の階層構造を形づくり、ラベルを媒介にしてさまざまな関係認識を形成しており、また概念スキーマのような形式で空間や時間の構造認識を保持していると思っている。だから、たとえ人間の観念や概念の総体からシニフィアンのラベルをすべて取り払ってしまってもそこはけっして星雲のような混沌状態ではないと思う。これは私自身の意識内部の観察からそのように判断しているのである。

なお、以上の私の説明については、「認識・思考における概念(観念)について 」(2006/07/07)で示した私の「3. 概念の二重性と言語表現」がある程度参考になると思うが、人間の対象認識が langue「言語」を媒介として言語で表現される過程についての三浦つとむの見解も示しておこう。


ソシュールは思想を「不定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者の発想では音声言語で表現されている概念も、langueの一面である非個性的な概念が思想と結合することによって具体化され個性的になったものと解釈されている。だが実際には言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前者のそれではなく後者のそれなのである。前者の概念は、後者の概念を表現するための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって、前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感性的であることは、この二種の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。連結されなければ規範が成立しない。これに対して、表現のとき対象の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴覚表象が連結され、現実の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのである。三浦つとむ言語学記号学勁草書房