ちょっと反省/イデオロギー


〔2006.07.08記〕

秀さんのブログの記事はいろいろな意味で私の脳髄に刺戟を与えてくれる。このところの「唯物論と観念論」がらみのものは秀さんの規定する唯物論が今ひとつはっきりしないのでなんとなく歯切れが悪い。秀さんは論理的に筋を通そうとするあまり、話題にしている観念論に対置する形で唯物論を取りあげるので徹底した唯物論批判にならないのであろう。秀さんの立脚点はやはり唯物論なのであって、そこから観念論を擁護する形をとるのでどうしても無理が生じるのではないだろうか。

そんなわけで毎度毎度秀さんの記事におんぶする形でしか話題を展開できないのがわれながら情けないのであるが、別に悪気があってやっているわけではないのでお許しを願いたい。ただ、そのたびにトラックバックするのもご迷惑であろうから、トラックバックはしばらくひかえることにしようと思う。

『「ソシュール的な発想」ということで何を言いたかったのか』での秀さんの関心は「人間はいかにして世界全体を体系的に認識するか」であったような気がする。私の関心は「人間はいかにして対象を認識するか」であって、体系的な認識ということにはあまり興味がない。というのは初めから枠組みを決めてかかっても得るところは少ないだろうと思うからで、「世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつける」という発想は創造主的であり、キリスト教的な「はじめにロゴスありき」のような発想に思えるからでもある。

論理とは何か」で秀さんが「唯物論的には扱えないけれど観念論的には考えることが出来る」ものとして挙げている倫理や人生観などはいわばイデオロギーであってここには宗教や法律や政治なども含まれる。これらは唯物論的に扱えないのではなくて、一種の公理系をなしているのでその内部ではそれらが依拠している原理を前提とした内部の論理でしか正否の判断ができないものである。それを外部の客観的な立場から内部の現象の正否を問うても内部でそのイデオロギーの前提を受け入れている者を説得することはできない。現実の事物から出発せずに頭の中で原理を立ててそれにしたがって理論を組み立てるのが観念論であるから、観念論がイデオロギーを扱うことは理にかなったことのように思えるが、かといって唯物論イデオロギーを扱えないというわけのものではない。それに唯物論の中にもイデオロギー的な唯物論もあるから一概に唯物論だとか観念論だとかと一括りにするのは乱暴な切り口ではないだろうか。

人は現実生活の中では民主主義とか道徳とか処世訓などといったいくつものイデオロギーにしたがって生きており、その生き方そのものの正否を科学的な真理や誤謬の観点から測ることはできないのではないだろうか。