認識の発展(鏡としての表現)


〔2005.02.03記〕

人間が鏡や他者を媒介にして自己認識を深めること、さまざまな計器や観測機器を利用して外部の自然(人間の肉体を含む物質世界)についての認識を深めること、そのさい精神的に自己を二重化し、現実の自己の立場以外の立場に移行して思考し再び現実の自己に復帰すること、そして、そうやって人間は認識の限界を越え自己や世界に対する認識を広げ深化させてきたということを前項までに書いてきました。それでは人間は人間の認識活動や精神活動それ自身についてはどうやってその認識を深め共有してきたのでしょうか。

「鏡と自己分裂(三浦つとむ)」に引用した三浦つとむの文章につぎのような部分があります。

マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があるということを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。……対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば、人間の観念を映し出すもの(表現)もある。……現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである。」(『スターリン言語学論文をめぐって』)

三浦は、表現人間(表現者)の観念を映し出す「鏡」であるといっています。このことと前項の「認識の対象化」の最後に書いた「表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識内容がとりわけ重要」ということとは密接な関係があります。というのは、「表現する」ことは「精神のうちにある認識活動を現実的に外化(対象化)する」ことであり、表現の本質は自己の認識活動を表現物という形で現実的・物質的に対象化し、この対象化された表現物を介して自己の認識活動を他者に伝えることにあるからです。

したがって、表現を受け取る他者は、表現物に対象化された表現者の認識活動つまり表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識活動(内容)をこの物質的な表現物を介して受け取ることになりますが、このとき表現物を鑑賞・受容する他者は、知覚した表現物の模像を媒介にして表現者の立場に観念的に移行し、その観念的な世界の中で対象化した表現者の認識活動追体験する必要があります。この観念的な移行がうまくいかないと表現者の認識活動を適切に対象化することができず、鑑賞者(受容者)は適切な追体験をすることができません。つまり、表現物に対象化された表現者の認識活動(内容)を正しく受け取るためには表現者の立場への観念的な移行(観念的自己分裂)がとても重要になってくるわけです。

表現物という「鏡」は三浦のいうように「人間の観念を映し出す」ものですが、表現者の認識活動を適切に追体験するには鑑賞者(受容者)の側にも単に受動的に表現を受け取るだけでなく能動的に(主体的に)表現に働きかけて表現者の精神の世界に自ら入っていくという努力が要求されるのです。また同時に、表現する側もそれを受け取る側が追体験しやすいように表現を工夫する必要があります。

(追記)人間が行なう表現の中でももっとも原初的なものは身体的表現とよばれるものであったと思われます。この身体的表現は人間だけでなく動物にも見られます。肉体的な動きや発声の形で表される身体的表現も認識活動の現実的な対象化ですから、この場合にも相手(人間や動物)の立場に移行してその相手の認識活動を追体験することが求められているのです。