認識の対象化


〔2005.01.31記〕

さて、「行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」というマルクスの言葉に対して三浦つとむは次のように書いています。

「ここで行動的な現実的な自分自身の二重化といわれているが、これだけを読んでも何のことだかわからないかもしれない。これは人間の自然に対するはたらきかけであり、労働をもってする物質的な生産活動を指しているのである。マルクスはこれを[自然の人間化」(『草稿』)「人の客体化」(『経済学批判序説』)などとよんでいるのだが、これまでのマルクス史的唯物論について解説した教科書には、この現実的な自分自身の二重化という見かたなど爪のアカほどもでてこないのにおどろく。われわれは労働能力を支出して生産物をつくりあげるという点で「人の客体化」が行われていることも大体わかるが、そればかりではない。「労働過程の終りには、その初めに当って、すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた一の成果が出てくる」(『資本論』(16))という意味で、生産物は観念的な面での「人の客体化」をも含んでいるのだ、マルクスは「自然の人間化」を、肉体と観念との統一である人間が、それぞれの面でことなった統一体としての生産物をつくりあげる点において、現実における分身・二重化としてとらえているのである。人間が労働能力を支出するのは労働能力を獲得するためでもある。これはひとつの矛盾だが、自然をまず人間化し、この人間化された自然をふたたび人間にとりもどす(使用あるいは消費)という生産的実践は、まさに実在する矛盾の発展、現実的な否定の否定である。」(『スターリン言語学論文をめぐって』)

生産物の中には投下された人間の労働力が結実しているという意味で、生産物が「外化された労働力」「対象化された労働力」であるということは比較的納得しやすいことですが、マルクスの指摘のように、生産物の中には「すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた」認識活動つまり精神的な労働力も含まれており、その意味で生産物は「外化された意識」「対象化された認識活動」でもあるわけです。つまり生産物は人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、生産物はそれらの現実的な統一体として人間の肉体・精神の外部に対象化されたものであるとマルクスはいっているのです。

ところで人間が肉体的活動および精神的活動を投入して生産するのは何も商品生産物に限られたものではありません。日常生活において人間がつくりだすさまざまな生活用品や道具、工作物、料理などはすべて人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものです。

また表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識内容がとりわけ重要なものとされています。それは表現とよばれる活動が人間相互の精神的交通のためにつくりだされ、人間が人間として社会的生活を送るために不可欠なものとなっているからにほかなりません。

言語表現も表現の一つであり、表現された言語(話し言葉・書き言葉・手話・点字等)は物質的生産物であるという側面(音声や文字)と精神的生産物であるという側面(内容)が分かちがたく結びついたものとして存在しています。つまり言語表現の意味とは表現された言語に結びついている表現者の認識活動であり、それは言語規範を介して言語表現に対象化されているのです。