前田英樹訳『ソシュール講義録注解』

〔2006.11.04記〕

相原奈津江・秋津伶訳の『一般言語学第三回講義』を読んで、ソシュールのいう「価値」がどういうものであるかはなんとなく理解できた。ソシュール「言語langue」が言語規範と内言とを包括する意識内における言語活動全般を指しているらしいこと、そしてソシュール「価値」をその範囲内でしか考えていないことが分かれば当然そうなるであろうというものである。

しかし、『第三回講義』には「言語とは何か」についてのきちんとした規定がない。言語や言語学についてのソシュールなりの規定は「一般言語学講義」の第二回に含まれているようである。とはいえ『第三回講義』と同じ訳者たちによる『第二回講義』は実は読む気が起こらない。というのは、以前も書いたように『第三回講義』の日本語訳は稚拙であり、読むのに苦労するからである(小林英夫訳の『一般言語学講義』に比べればずっとまともではあるが、日本語が稚拙というのは大きな難点であろう)。

第二回講義については、前田英樹訳『ソシュール講義録注解』(法政大学出版局・1991年9月30日)というのが出ていて、これは第二回講義のうちの「序説」(INTRODUCTION)の部分の和訳とそれに付した注解からなる著書である。『第三回講義』を手に入れた直後に手に入れてざっと眺めただけで、まずは『第三回講義』の方にとりかかったわけである。その後、言語学方面の本から離れて他のことをいろいろやっていた。それで、昨晩からようやく前田の『講義録注解』にとりかかったところである。

日本語訳はこなれていて読みやすい。ソシュールがいったいどんなことを考えていたがよく分かる日本語である。前二者のひどい日本語を読まされた身には救われた思いがする。とはいえ、日本語が分かりやすいからといって内容までもが分かりやすいわけではない。そこにはやはりソシュールの哲学的な論理が貫かれているので、哲学の持つ分かりにくさ(つまり独善性)というのはやはり厳然と存在している。したがって、読む方は否応なしにソシュールの独善的な立場に感情移入しないと内容が理解できないのである。これは私にとっては新たな苦痛である。前二者の場合は、なにより日本語を理解することに努力が要ったために、ソシュールの立場への移行が十分できなかった。その分、苦痛は少なかったともいえる。

とまあ、そんな苦痛を感じながら読み始めたというわけである。

前田の注釈は、前田の解釈である。これまた哲学的で難しい。こちらにも付き合っていると二人の哲学者を相手にするわけで、苦痛が二倍になる。とりあえず前田の解釈は後まわしにして、ソシュールのいうところを批判的に追体験してみようと思う。例によって読むのが遅い私のことであるから、読後感想文がいつになったら書けるかは分からない。そもそも感想文自体が書けるかどうか自信はないが…。