主観・客観と観念的自己分裂


〔2006.02.05記/2006.02.10追記〕

観念的自己分裂について語るときに三浦つとむは鏡の例を引く。

ある人が鏡の前に立って鏡に映った自分の姿を見ている場合、この状況を客観的に見ると、鏡という存在は鏡を見る主体[現実の人間]に対してその主体の視覚の対象となる客体[鏡に映った人間の像]をつくりだす媒介をしていることがわかる。つまり、鏡は主体にとってその客体をつくりだす媒介の作用を果たすものであり、〈主客対面の構図〉をつくりだす媒介となるものだということである。

しかしながら、鏡に対面して自分の姿を見ているときの意識内部の活動を観察・反省してみれば、鏡に映った自分の姿が映像であることを失念し、いつしか映像を現実の自分であるかのように見ているもう一人の自分がいることを発見できるであろう。このとき実は世界は二重化している。生きた人間である現実の自分[主体]が鏡の映像[客体]を見ている〈現実の世界〉に対して、意識内部では現実の自分(鏡に映った映像[客体]に媒介されて意識内に形成された自己の像)を見ているもう一人の観念的な自分(現実の自己[主体]から分離した観念的な主体)がおり、意識内部にはこのような主客の対面構図からなる〈観念的な世界〉[想像の世界]が成立しているのである。

鏡(厳密にいえば鏡に映った自己の像)を媒介にした世界の二重化と、現実の自己からの観念的な自己の分離とは同時に起こることであり、〈鏡に映った自己の像〉と同じように世界の二重化を媒介するものはほかにもたくさんある。これについてはまた後に触れることにするが、三浦つとむはこうした〈世界の二重化〉とそれにともなう〈現実の自己からの観念的な自己の分離〉を観念的自己分裂と呼んでその過程的構造を理論的に明らかにしたのである。

観念的自己分裂という意識活動そのものは人間ならだれしも日常的にしかも絶えず行なっているありふれた活動すなわち〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれる意識活動であるから、これまで幾多の哲学者や心理学者・言語学者・文学者等がそれなりの分析を行ない、この精神現象を扱ってきた。しかし、この意識活動をその過程的構造において分析し、その動的なメカニズムを理論的・概念的に明確に説明した最初の人は三浦つとむであった。そして、三浦つとむがこの観念的自己分裂という意識活動について理論的に研究しようと考えるきっかけをつくったのは推理作家エドガー・アラン・ポーの小説『モルグ街の殺人』であったことは特筆しておくべきことかもしれない。これについてはあらためて取りあげるつもりである。

さて、デカルト、カント以来のいわゆる「主観ー客観対立図式」はそこから生じた「主観主義」と「客観主義」、ことに「客観主義」に対する批判の声が近ごろはかまびすしく、「主観ー客観対立図式」の評判もとみに低下している。確かに「主観主義」も「客観主義」も主観と客観のそれぞれの性質を把握した上での論理であるからそれなりに説得力のあるものではあるが、主観と客観を対立し相容れないものとしてとらえる点では両者とも一面的な見方であり、ちょうど裏返した長所と短所を持っているという点では異父兄弟のようなものである。

「主観ー客観対立図式」を観念的自己分裂という観点から再評価すると、それは〈主観ー客観対面図式〉ではあっても単純な対立図式ではないことが分かる。

人間はあらゆるものを対象として意識する存在である。しかも自己を意識の対象として反省[自省]することのできる存在である。自己を含めあらゆるものを対象として意識する意識、自己を含めあらゆるものを対象として思考する意識とはなんであろうか。それは〈自己意識〉である。しかも人間は自己意識をも意識の対象として意識することができる。自己意識がどのようにして形成され、人間がいかにして観念的自己分裂の能力を獲得したかについては別のところで述べるとして、ここでは観念的自己分裂という意識活動から見た「主観ー客観対面図式」と〈自己意識〉とについて私の私見を述べようと思う。

カントの定立した主観(subject)とはデカルトの「(我)思うゆえに(我)あり」の「(我)」であり、自己を含めあらゆるものを対象として意識する意識すなわち自己意識である。そして客観(object)とは主観が「思う」対象としての客体である。人間の自己意識つまり主観は自己を含めあらゆるものを対象(客体)としてすなわち客観として意識し、思考することができる。客観は主観としての自己意識以外のあらゆるものつまり主観の対象のことであるから対象意識とも呼ばれる。

カントは人間の意識外部の物質および物質現象を現実的に把握する経験的な主観つまり直観・直覚の主体[感覚的な主体]と、意識外部および内部のあらゆる現象を対象つまり客観として把握する超越論的な主観つまり理性的な主体とを峻別し、後者の超越論的な主観すなわちデカルトのいう「絶対不動の基礎」である「肉体から切り離された純粋な精神としての思いつつある我」を「存在するものすべての存在を支える卓越した基体(subjectum)」であると位置づけて、この基体を「真の主観」すなわち形而上学的原理として定立したのである。

このような「二つの主観」という観点はギリシア哲学の哲学的霊魂観にも見られるものであって、特にアリストテレスの説く「感覚・運動と連動する植物的・動物的な霊魂」と「普遍的で不滅な理性的・超越的な霊魂」とはカントの「経験的な主観」と「超越論的な主観」とにぴったり符合するものであろう。

観念的自己分裂という意識活動から見てこの「二つの主観」が何を意味するかはもはや明らかであろう。さきに触れたように観念的自己分裂においては世界は二重化しているのであって、一方では現実的な世界において現前(present)している自己の肉体を含むあらゆるものを客体として知覚・直観し、それらと肉体的・精神的な相互交通を行なっている現実の自己[現実の主体]として、他方ではその現実的な自己が意識内部につくりあげた観念的な想像の世界において(観念的に)現前(represent)している観念的なもの・現象を客体として認識し思考している観念的な自己[観念的な主体]として、これら二つの主観が二つの世界の中に別々にしかも同時に存在しているのである。そしてこれら二つの世界を自在に行き来しているのが人間のありふれた日常の意識活動としての観念的自己分裂であり、この観念的自己分裂を統御しているのは肉体的・精神的な統一体としての現実の自己[現実の主体]である。つまりカントの「経験的な主観」とはこの肉体的・精神的な統一体である現実の自己[現実の主体]であり、「超越論的な主観=真の主観」とは現実の自己[現実の自己意識・現実の主体]から分離し観念的な想像の世界に立場を移行した観念的な自己[観念的な主体]なのである。

そしていわずもがなではあるが、客観にも二つのものがあるということが自ずから明らかになる。一つは現実の自己[現実の主体]が直観(注)・直覚の対象として知覚し認知している現実の・実在の客体から直接にもたらされる客観、すなわち現実の世界に現前(present)しているもの(自己の肉体や肉体的活動を含む)の知覚表象という形態をとった客観であり、もう一つは意識の内部で現実の自己から分離した観念的な自己[観念的な主体]が意識・思考の対象として認識し思考しているあらゆる客体、すなわち現実の自己が意識内部につくりあげた観念的な想像の世界に現前(represent)している表象や観念・概念という形態をとった客観である。


(注)直観という語は一般的にもまた哲学的にもさまざまな意味をもった語として使われている。この文書(『ことば雑記』)では知覚・直覚と同義で用いているが、知覚・直覚はすでに獲得され・記憶されたさまざまな形態の認識(知識)からのフィードバックを受けて形成される統合的なもの(自覚的・無自覚的な認知)であるというのが今日の知見であるから、私は直観という語もまた同じ性格をもつものとして用いている。
また、熟語としての直観は通常「直観すること」という意義と「直観されたもの・直観された内容」という意義あるいは両方の意義を含んだものであるが、意味の違いは文脈に依存している。これは直観という語に限らず多くの熟語に共通する性格である。この文書ではほとんどが「直観すること」という意味で使われている。

以上のことを整理すると以下のようになる。

 (1)観念的自己分裂は人間が日常的に絶えず自覚的[意識的]・無自覚的[無意識的]に行なっているありふれた意識活動であり、〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれるものである。

 (2)観念的自己分裂においては、世界は〈現実の世界〉と〈観念の世界〉[想像の世界]とに〈二重化〉しており、それら二つのそれぞれの世界ではともにそれぞれの〈主客が対面〉している。

 (3)現実の世界においては、肉体的・精神的な統一体である現実的な自己[現実的な主体]が、現実の世界に現前(present)しているあらゆるもの(自己の肉体や肉体的活動を含む)をその客体として対面しており、意識内ではそれらの客体から直接にもたらされる統合知覚が直観的な客観(「感覚的な客観」)として現実の自己意識(「感覚的な主観」)の客体となっている。

 (4)現実の自己[現実の自己意識]によって意識のうちに自覚的・無自覚的につくりだされた観念的な世界においては、現実の自己[現実の自己意識]によって自覚的・無自覚的につくりだされて観念的に現前(represent)している表象や観念・概念(「理性的な客観」)が、自覚的・無自覚的に現実の自己[現実の自己意識・現実の主体]から分離した観念的な自己[観念的な主体・観念的な自己意識](「理性的な主観」)の客体となっている。

西洋哲学に大きな影響を与えたパルメニデスが「論理法則を使って客観的に永遠不変なものをとらえる能力」を理性と呼び、アリストテレスやカントが観念的な自己[観念的な主体]を「理性的な主観」と呼んだのは、自覚的意識的に現実の自己から分離した観念的な自己であって、無自覚的・無意識的に分離したそれではない。人間は自覚的・意識的に観念的自己分裂を実践することによって対象[客体]に対する認識を深め・広め、現実の自己に復帰する。それによって現実の自己の認識も深まるし広まるのである。むしろ自覚的・意識的な観念的自己分裂の実践なくしては認識の深化は不可能なのである。そして創造力が想像力の別名であるように「理性的な主観」はまた創造的な主観でもある。

それゆえ観念的な自己[観念的な主体]を「理性的な主観」と一般化して呼ぶのは不適当であろう。観念的な自己[観念的な主体]にも〈妄想〉や〈勘繰り〉といった非理性的なものもあるからである。そして理性的だからといってそれが客観的なものであるとは限らない。それは方法論の問題であり、ここでの問題とはまた別の問題である。

パルメニデスが感覚を「変化するものだけをとらえる能力」であり主観的なものであるといい、アリストテレス、カント等が現実の自己[現実の主体]の主観を感覚的・一時的な不確かな主観であるとして、これを退けたのにも理由がある。彼らは直観・直覚は意識の外部にあって絶えず変転し、個々別々の個性を示す対象[客体]の千変万化な個別性をとらえる能力であると考え、自覚的な観念的な自己[観念的な主体]は対象[客体]の不変的・普遍的な側面を理性的に分析的にとらえる能力であると考えたからであり、このような考え方は一面的ではあるが真理の一部をついているからである。

しかし、物質は絶えず運動し世界は変化し続けているのだから対象[客体]が絶えず変転することは普遍的な事実である。また、観念的な世界において観念的な自己[観念的な主体]の客体となっている表象や観念・概念は、個別的・具体的なさまざまな現実の存在[客体]から知覚表象として獲得された「感覚的な客観」を材料として不要な具体性が捨象され・抽象された結果形成され、あるいは再構成されたものである。したがって知覚表象がなければ表象や観念・概念を形成することはできず観念的な思考自体が不可能になる。そしてそのような抽象が可能なのは個別的・具体的なさまざまな現実の存在[客体]自身が普遍的な性質をも合わせもった存在だからであり、直観・直覚が現実の対象の個別性・特殊性を知覚表象としてとらえるばかりでなく、観念的な自己[観念的な主体]の働きによってすでに獲得され記憶されている認識のフィードバックを受けた観念的・概念的な把握・認識をも同時に行なっているからである。このことは日常生活における直観・直覚の内容である知覚表象について少し注意して自省してみれは理解できることである。そしてその折にフィードバックされた認識が不適切な誤ったものであったり先入見であったりした場合には、直観・直覚が誤認したり、錯覚をしたりすることもある。観念的な自己[観念的な主体]に非自覚的・無意識的な非理性的なものがあるように直観・直覚にも不注意な思いこみや錯覚、空耳のようなものもある。

しかしながら、自覚的な観念的自己分裂の実践を続けているうちにそれが習い性となり、無自覚・無意識に適切な観念的自己分裂をするようになるのも事実であるし、直観・直覚は受動的な場合はほとんどが無自覚・無意識ではあるがたいていは適切な知覚表象を得ていることを考えると無自覚・無意識の主観を一概に否定することはできない。

また、観念的自己分裂を統御しているのが現実の自己[現実の主体]であることは重要な点である。しかし、現実の主体の主観と観念的な主体の主観は相互に浸透しあいつくりあって(影響しあい補いあって)いること、それらの客体である現実的な客観と観念的な客観とが相互に連係していることも留意しておく必要があろう。